仏陀跋陀羅と跋陀波羅菩薩
名前が似ていて、混乱していた。
CBETAで「跋陀婆羅菩薩」を検索すると、色々とヒットしたのだが、その中に碧巌録の2つの則があった。62則と78則。
《佛果圜悟禪師碧巖錄》卷7:【六二】
舉。雲門示眾云。乾坤之內(土曠人稀。六合收不得)宇宙之間(休向鬼窟裏作活計蹉過了也)中有一寶(在什麼處。光生也。切忌向鬼窟裏覓)祕在形山(拶點)拈燈籠向佛殿裏(猶可商量)將三門來燈籠上(雲門大師是即是不妨誵訛。猶較些子。若子細撿點將來。未免屎臭氣)。
雲門道。乾坤之內。宇宙之間。中有一寶。祕在形山。且道雲門意在釣竿頭。意在燈籠上。此乃肇法師寶藏論數句。雲門拈來示眾。肇公時於後秦逍遙園造論。寫維摩經。方知莊老未盡其妙。肇乃禮羅什為師。又參瓦棺寺跋陀婆羅菩薩。從西天二十七祖處。傳心印來。
ここの「跋陀婆羅菩薩」について、岩波碧巌録(中)p.273-274の注五には「仏陀跋陀羅(三五九―四二九)」とある。肇法師(僧肇、384-414?)の活動について語られ、また鳩摩羅什(344-413)も書かれるから、妥当と思う。
《佛果圜悟禪師碧巖錄》卷8:【七八】
舉。古有十六開士(成群作隊。有什麼用處。這一隊不唧𠺕漢)於浴僧時隨例入浴(撞著露柱。漆桶作什麼)忽悟水因(惡水驀頭澆)諸禪德作麼生會。他道妙觸宣明(更不干別人事。作麼生會他。撲落非他物)成佛子住(天下衲僧到這裏摸索不著。兩頭三而作什麼)也須七穿八穴始得(一棒一條痕。莫辜負山僧好。撞著磕著。還曾見德山臨濟麼)。
楞嚴會上。跋陀婆羅菩薩。與十六開士。各修梵行。乃各說所證圓通法門之因。此亦二十五圓通之一數也。他因浴僧時。隨例入浴。忽悟水因。云。既不洗塵。亦不洗體。且道洗箇什麼。若會得去。中間安然。得無所有。千箇萬箇。更近傍不得。
ここの「跋陀婆羅菩薩」は、まさに「楞嚴」経で「他因浴僧時。隨例入浴。忽悟水因」ということなので、お経にある菩薩だろう。
碧巌録の「跋陀婆羅菩薩」では2つの解釈があるようだ。
「仏陀跋陀羅」については、特定は容易だった。
wikipediaにあり、岩波仏教辞典でも同様だった。碧巌録62則に該当する。
仏陀跋陀羅(ぶっだばったら、サンスクリット: Buddhabhadra, ブッダバドラ)(359年 - 429年)は、中国東晋で活動した北インド出身の訳経僧。姓は釈迦氏、カピラヴァストゥの人である。名前は、音写されて「仏陀跋陀羅」もしくは「仏馱跋陀羅」とされ、意訳されて「覚賢」「仏賢」「覚見」とされる。
17歳で出家、同学の僧伽達多とともに罽賓に至った。そこで、中国僧の智儼と出会い、智儼から、中国では正しい禅法を教化できる師を求めていることを聞き、中国行を決意する。
最初、青州に渡来し、長安に向かって、鳩摩羅什とともに過ごした。その後、長安の道恒らの有力僧の排斥を受けて、慧観らの門弟40名を伴って南へ逃れた。排斥の原因は、仏陀跋陀羅の持していた禅法と戒律が、鳩摩羅什の影響下にあった長安仏教界には受け入れられなかったことにあるとされる。
廬山の慧遠のもとに落ち着き、禅法関係の経典を漢訳した。
「大般涅槃経」や六十巻本の「華厳経」、「摩訶僧祇律」など15部117巻を翻訳した。
また、近年の仏教学では、二巻本「仏説無量寿経」は仏陀跋陀羅と宝雲による共訳であるという説が有力となっている。
実際、華嚴経の訳者となっている。
大方廣佛華嚴經卷第一
東晋天竺三藏佛馱跋陀羅譯
世間淨眼品第一之一
如是我聞。一時佛在摩竭提國寂滅道場。~
一方、跋陀波羅菩薩の、根拠(信憑性があると思われる情報)にちょっと苦労した。お風呂に因み、禅寺ではお風呂に置かれ、『首楞厳経』に書かれる、といいうのは、google検索の多数で共通しているので、そのような菩薩だろう。しかし碧巖録で二通りなのが困る。62則の注で間違いとはされていないのだ。
菩薩ということについては、首楞嚴經に根拠をもとめることができる。
《大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經》卷5:
跋陀婆羅并其同伴十六開士,即從座起,頂禮佛足而白佛言:「我等先於威音王佛聞法出家,於浴僧時隨例入室。忽悟水因,既不洗塵,亦不洗體;中間安然,得無所有。宿習無忘,乃至今時從佛出家,令得無學。彼佛名我跋陀婆羅,妙觸宣明,成佛子住。佛問圓通,如我所證,觸因為上。
最後の問題は、62則のように「仏陀跋陀羅」を「跋陀波羅菩薩」とするか、である。
大修館禅学大辞典で「跋陀波羅菩薩」を引くと、あった。
①梵Bhadrapala、賢護・善守。
大佛頂萬行首楞嚴經(五)に記す菩薩で、賢却中に成佛するとされる。一六開士と共に水に因って悟りを開いたために、禅林では浴室にその像が設けられている。
②佛陀跋陀羅のこと。
上②のように、仏陀跋陀羅を跋陀波羅菩薩と呼ぶことはある、ということだ。