管長日記「達磨大師のご命日」解釈20241005
達磨大師は久しぶりかもしれないものの、1年に1、2回は採り上げられているようにおもう。今年は花園大学での老師の逸話の講義1回目で聞いたことが無いような逸話があって驚いた。今日の話は、知られている範囲なのだが、丁寧な説明である。禅文化研究所発行『日本にのこる達磨伝説』はよさそうな本だ。
構成
1.達磨大師の命日、円覚寺での法要
2.広辞苑の項目「達磨」、「南インドのバラモンに生まれ、般若多羅に学ぶ」『日本にのこる達磨伝説』
3.「般若多羅尊者がお亡くなりになった後に、中国に渡った」
■1.について
十月五日は達磨大師のご命日、円覚寺では午前十時から佛殿で法要
中央の須弥壇の上に、達磨大師のお像をお祀りする。(普段は佛殿の左奥にお祀りしている)
住持(南嶺老師、導師の役でもある)が、お香を献じて三拝、ご飯と白湯を献じて三拝、そしてお茶を献じて三拝。導師に五侍者がつき、五人がそれぞれ手渡しでお供えする。
10/3の管長日記「開山さまの最期」の内容とほぼ同じみたいだ。五侍者は侍香・侍状・侍客・侍衣・侍薬とあった。読経のことは書かれていないが、どうなんだろう。
■2.について
要点を取る。
・南天竺(南インド)の国王、香至王は仏法を信仰
・菩提達磨は第三王子、名は菩提多羅
・般若多羅尊者は第二十七代目祖師
・般若多羅の、三人の王子への質問:「この宝珠に匹敵する宝は、他にあるでしょうか」 第一王子の月浄多羅・第二王子の功徳多羅は言う:宝珠、王家
第三王子の菩提多羅:智慧の光
・香至王の死去、菩提多羅のみ王の枢前で禅定、七日後、般若多羅に出家を求めた。
正法眼を第三応じに授け、菩提達磨の名を与える。
南天竺に滞在し、般若多羅の滅後六十七年に、震旦(中国)に赴き、法嗣を探し、教化する。
・達磨大師は当時の天竺の仏教六宗派を帰服、天竺中に名を轟かせた。
■3.について
・中国に渡り、梁の武帝と問答。これは碧巌録の第一則で有名。
揚子江を渡って魏の国に行くが、芦葉に乗って川を渡る姿の画が「芦葉達磨」図(ろようだるまず)
・二祖慧可に法を授けた時、『楞伽経』四巻を授ける。
楞伽経には3つあって、この四巻のものは『楞伽阿跋多羅宝経』求那跋陀羅訳。いちばん難しい。十巻本『入楞伽経』菩提流支訳、七巻本『大乗入楞伽経』実叉難陀訳があるが、四巻本が一番古い。
なお楞伽經は、如來藏思想と唯識思想によるようだ。
・達磨大師は迫害をうけて五度も毒を盛られた、とある。最後が六度目。端然と坐したまま遷化。その年のうちに熊耳山(河南省)に葬り、定林寺に塔を建てた。
・「当時、北魏王朝は仏教を崇敬し、あまたのすぐれた僧侶がいた。~その年のうちに熊耳山(河南省)に葬り、定林寺に塔を建てた。」のところは、五燈会元に記載がある。
《五燈會元》卷1
時魏氏奉釋。禪雋如林。光統律師.流支三藏者。乃僧中之鸞鳳也。覩師演道。斥相指心。每與師論義。是非蜂起。祖遐振玄風。普施法雨。而偏局之量。自不堪任。競起害心。數加毒藥。至第六度。以化緣已畢。傳法得人。遂不復救之。端居而逝。即魏莊帝永安元年戊申十月五日也。其年十二月二十八日。塟熊耳山。起塔於定林寺。
・また、慧可大師との話も五燈会元にある。
《五燈會元》卷1:
祖又曰。吾有楞伽經四卷。亦用付汝。即是如來心地要門。令諸眾生開示悟入。吾自到此。凡五度中毒。我甞自出而試之。置石石裂。緣吾本離南印來此東土。見赤縣神州有大乘氣象。遂踰海越漠。為法求人。際會未諧。如愚若訥。今得汝傳授。吾意已終
(別記云。祖初居少林寺九年。為二祖說法。秖教外息諸緣。內心無喘。心如牆壁。可以入道。慧可種種說心性。曾未契理。祖秖遮其非。不為說無念心體。可忽曰。我已息諸緣。祖曰。莫成斷滅去否。可曰。不成斷滅。祖曰。此是諸佛所傳心體。更勿疑也)。
言已。乃與徒眾往禹門千聖寺。止三日。