管長日記「神々が体に鎮座」解釈20241204

今日は白隠禅師の臘八示衆第三夜となる。
神々が体に鎮座、とはどういう意味だろうか。

構成:
1.白隠臘八示衆第三夜、第一段(傳法と護法)
2.白隠臘八示衆第三夜、第二段(弁才天)
3.白隠臘八示衆第三夜、第三段(鎭坐が諸神を祭る)
4.白隠臘八示衆第三夜、第四段(坐禅)
5.目黒絶海老師のお話(『いろはにほへと』引用)
6.白隠臘八示衆第三夜、第五段(一炷坐功徳)

神々は神道なのだが、目黒絶海老師をへて、あらゆる細胞の生きようとする力を八百万の神の鎮座といい、また佛心という主張は見事だと思った。

■1.白隠臘八示衆第三夜、第一段(傳法と護法)
「臘八第三夜の示衆は、少々長いので、原文をすべて紹介することはやめて、その意味だけを書いてみます。」

少々残念だが、時間縛りはある。ちなみに原文は次。
東嶺圓慈『五家參祥要路門』
第三夜示衆曰。如來正法眼藏的的相承。是謂傳燈菩薩。如來正法眼藏能護持。
是謂護法菩薩。傳燈護法猶如師家與檀越。師檀不合。大法獨不行。
而護法爲最上。昔弘法大師嘗祈請大日如來曰。誰是護法最上耶。
如來告曰。無如辯才天。是雖傳燈爲第一。若無護法之力。
則所以佛法只獨不行也。是故護法爲最上也。又坐禪通一切諸道。
若以神道言之。則身即天地小者也。天地即身大者也。天神七代。地神五代。
並八百萬神。悉皆身中鎭坐矣。如此欲祭祀鎭坐諸神者。
神史所謂非靈宗神祭則不能祭之。靈宗神祭者。非神定則不能祭之也。
竪起脊梁骨。充氣丹田。正身端坐。眼見耳聞不雜一點妄想。獲六根清淨。
則是祭天神地祇也。雖一炷坐。其功徳不爲鮮矣。是故道元禪師曰。
可勤之一日。可貴之一日也。不勤 之百年。可恨之百年也。鳴呼可恐可愼

「禅宗では、お釈迦様以来代々教えを継承していることを尊んでいます。修行道場では、逓代傳法仏祖の名號といって、お釈迦様以来、ずっとインド中国日本へと法を伝えられた方々のお名前を読み上げています。円覚寺ではお釈迦様から先代の慈雲大進禅師まで読み上げているのです。
この代々教えを継承してくださった方々を傳燈の菩薩といいます、そしてその教えを護持してくれるのを護法の菩薩と言います。修行は一人ではできません。守ってくれ、ささえてくれる方がいてこそ出来るものです、
この傳燈と護法の関係は、師家と檀越のようなものだといいます。法を伝える師家の方がいて、それをささえてくれる檀家の方がいるのです。檀越というのは、今でいえばスポンサーにあたるでしょう。師家と檀越とが力合わさって仏法は行われてゆくのであって、一人の力でできるものではないのです。」

これで第一段だろう。傳燈と護法と、一般の実践者とか宗教的な信者、つまりお客さんやユーザーのことではなく、プロ、職業的な立場でいう。菩薩とはリーダーだろう。
職業的という観点で言ったが、大接心とはプロ養成合宿みたいなものかもしれない。仏教、禅が接心に参加するような、まあ居士のような人にも利益をもたらすようになれば良いと思う。なかなか人文的なことは、仕事としてのアウトプットを作りにくいようにも思う、かな? ここはちょっと考えどころかもしれない。産業的な応用のことだろう。

ここのところは「第三夜示衆曰。如來正法眼藏的的相承。是謂傳燈菩薩。如來正法眼藏能護持。是謂護法菩薩。傳燈護法猶如師家與檀越。師檀不合。大法獨不行。而護法爲最上。」となる。

■2.白隠臘八示衆第三夜、第二段(弁才天)
「昔弘法大師が、大日如来に、護法の菩薩では、誰が一番いいですかと問うと、弁才天にしくものはないと答えられました。」

「昔弘法大師嘗祈請大日如來曰。誰是護法最上耶。如來告曰。無如辯才天。」

「弁才天は、「音楽・弁才・財福などをつかさどる女神。妙音天・美音天ともいう。二臂あるいは八臂で、琵琶を持つ姿、武器を持つ姿などに表される。もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神となり、吉祥天とともにインドで最も尊崇された女神。」日本では後世、吉祥天と混同し、福徳賦与の神として弁財天と称され、七福神の一つとして信仰される。」(『広辞苑』)

「円覚寺でも弁才天をお祀りしています。法を伝える傳燈が第一でありますが、護法の力がないと仏法も伝わらないのです。ですから護法というのも大事だと説かれています。」

弁才天とは、仏教の下に在る者か、外部で財をもたらす者か、でスタンスが変わるだろう。前者なら仏教関係の事業主、後者なら大口のクライアントといった感じだろうか。現在なら後者の奉加自然だろう。

「そのあとは少し原文を紹介します。」

飛ばされるところは、「是雖傳燈爲第一。若無護法之力。則所以佛法只獨不行也。是故護法爲最上也。」

■3.白隠臘八示衆第三夜、第三段(鎭坐が諸神を祭る)

「又坐禪は一切諸道に通ず。若し神道を以て之を云えば則ち身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるものなり。天神七代、地神五代、並に八百萬神悉く皆身中に鎮坐せり。此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、神史に所謂る霊宗の神祭に非ずんば則ち之を祭る事能わず。 靈宗の神祭は禪定に非ずんば之を祭る事能わず。背梁骨を豎起し氣を丹田に満たしめて正身端坐、眼見耳聞一點の妄想を雜えず、六根清浄なる事を得るときは則ち是れ天神地祇を祭る也。」

「又坐禪通一切諸道。若以神道言之。則身即天地小者也。天地即身大者也。天神七代。地神五代。並八百萬神。悉皆身中鎭坐矣。如此欲祭祀鎭坐諸神者。」

「坐禅は諸道に通じるとはよく言われます。剣禅一如とか、茶禅一如など言われ、剣道、茶道などにも通じます。神道にも通じて説かれています。
神道では、この体は天地の小なるもので、天地は体の大なるものだというのです。そこで天の神七代、地の神五代、それから八百万の神々がこの体に鎮座されていると説かれています。この体に鎮座なされている神々をお祀りするには、霊宗の神祭でなければならいないといいます。」

なるほど、神々というのは神道のことだった。江戸時代、というか歴史的には神仏習合の日本ではそれが言えたのかもしれない。

「ではその霊宗の神祭というのは、どういうものかというと、それは禅定だというのです。禅定でなければ、身中に鎮座する神々をお祀りすることはできないのです。坐禅は、体に鎮座する神々のお祀りだというのです。(悉皆身中鎭坐矣。如此欲祭祀鎭坐諸神者。)」

これを飛ばす、「神史所謂非靈宗神祭則不能祭之。靈宗神祭者。非神定則不能祭之也。」

■4.白隠臘八示衆第三夜、第四段(坐禅)

「「背梁骨を豎起し」腰骨を立て背骨を立てて、「氣を丹田に満たしめて」気海丹田に気を充実させて、「正身端坐」します。まっすぐに坐るのです。「眼見耳聞一點の妄想を雜えず、六根清浄なる事を得るときは則ち是れ天神地祇を祭る也。」とあって、目で見るもの、耳で聞くもの、そこに一点の妄想もまじえないのです。そうして六根清浄になると、天地の神々をお祀りすることになるのだというのです。」

「竪起脊梁骨。充氣丹田。正身端坐。眼見耳聞不雜一點妄想。獲六根清淨。則是祭天神地祇也。」

南嶺老師は、山本玄峰老師の『無門関提唱』(p.47)を引用し、六根清浄を示す。

「山岡鉄舟に
「一体坐禅というものはどんなものじゃ」とある人が聞いたら
「あれはちょうど石鹸みたいなものじゃ」と答えた。
おかしいじゃないか。垢で垢を落すのじゃ。公案とか何とかいうが、みな垢の一つのようなものじやけれども、その垢をもつていかんとほかの垢が落ちん。石鹸がソーダがないとほんとうに垢じんだものが白くならないのと同じことじや。からだの垢は自然にいつついたやらわからん。心の垢もそうじゃ。」

■5.目黒絶海老師のお話(『いろはにほへと』引用)
「こんなお話を私はまだ小学生の頃に目黒絶海老師から拝聴したのでした。なにか分からないけれども坐禅はすごいのだと思ったものです。「それからこの体に八百万の神々が鎮座しているとはどういうことかなと思いました。

「人間には何十兆もの細胞があって、総力をあげてがんばってこの命を保ってくださっています。あらゆる命あるものは生きようとする素晴らしい力を持っています。それは仏心仏性といっても同じことであります。」というのです。
あらゆる細胞が総力をあげて生かしてくださっている様子は、まさに八百万の神々が鎮座されているのと同じだと思うのであります。」

『いろはにほへと』からの引用と解釈したが、間違っていなかったのだろうか。
南嶺老師は、最近は聞かないが、よく「人間は大自然」という句を示しており、この句は自然な論理展開が可能で、つまり色々と整合を取れて良い。
日本の神々といえば、上手く当てはまるような気もする。

■6.白隠臘八示衆第三夜、第三段(一炷坐功徳)

「一炷の坐と雖も其の功徳鮮(すくな)しとなさず。是の故に道元禪師曰く、勤むべきの一日は貴むべきの一日也。勤めざるの百年は恨むべきの百年なりと。嗚呼恐るべく慎むべし。」
「雖一炷坐。其功徳不爲鮮矣。是故道元禪師曰。可勤之一日。可貴之一日也。不勤之百年。可恨之百年也。鳴呼可恐可愼」

「努力しなければと思うのであります。」
まだ、三日目だ。

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