大乘起信論(2)
已(すで)に因緣分を說く。
次に立義分を說く。
摩訶衍者、總說には二種有り。云何(いかん)が二と為す?一者、法、二者、義なり。言う所の法者、眾生心を謂う。是の心は則ち一切の世間法と出世間法とを攝(しょう)すれば、此の心に於依りて摩訶衍の義を顯示す。何を以って故に?是れ心の真如の相は即ち摩訶衍體を示す故なり。是の心の生滅の因緣の相は、能く摩訶衍の自の體、相、用を示す故なり。言う所の義者、則ち三種有り。云何が三と為す?一者、體大、一切法の真如を謂う。平等にして增減せざるが故なり。二者、相大,如來藏を謂う。無量の性功德を具足するが故なり。三者、用大、能く一切の世間と出世間との善の因果を生ずるが故なり。一切の諸佛の本を乘ずる所の故なり。一切の菩薩も皆な此の法に乘じて如來地に到る故なり。
已に立義分を說く。
次に解釋分を說く。
解釋分に三種有り。云何が三と為す?一者、正義(しょうぎ)を顯示し、二者、邪執を對治し、三者、道を發趣する相を分別する。
正義を顯示する者、一心法に依りて、二種の門有ること。云何が二と為す?一者、心真如門、二者、心生滅門なり。是の二種の門、皆な各おの一切法を總攝(そうしょう)すればなり。此の義は云何?是れ二門は相離れざるを以っての故なり。
心真如者、即ち是れ一法界にして、大總相、法門の體なり。謂う所は心性の不生不滅なり。一切の諸法は唯だ妄念に依りてのみ而して差別有るも、若し妄念を離るなら則ち一切の境界之相は無である。是の故に一切法は本從り已來(このかた)、言說の相を離れ、名字の相を離れ、心緣の相を離れ、畢竟平等にして、變異有ること無く、破壞す不可、唯だ是れ一心のみなるのみなれば、故(ことさ)らに真如と名づく。一切の言說は假名にして實無く、但(ただ)妄念に隨うのみにして、不可得なるを以ての故に、真如と言う者、亦た相有ること無く、言說之極、言に因って言を遣(や)るを謂う。此の真如の體は遣る可きこと有ること無く、一切の法は悉く皆な真なるを以っての故なり、亦た立する可き無く、一切の法は皆な同じく如くなるを以っての故なり。當に知るべし、一切の法は說く不可、念ず不可(べからざ)るが故に、名づけて真如と為す。
問うて曰く、「若し是の如き義者、諸の眾生等は云何が隨順し而して能く入ることを得ん?」
答えて曰く、「若し一切法を說くと雖も。能說と可說と有ること無く、念ずと雖も、亦た能念と可念と無しと知らば、是れ隨順と名づく。若し念に於いて離らば、名づけて入ることを得ると為す。」
復た次に、真如者、言說に依って分別すれば二種の義有り。云何が二と為す?一者、如實空、能く究竟して實を顯すが以っての故なり。二者、如實不空、自體有りて、無漏の性功德を具足するを以っての故なり。
言う所の空者、本と從り已來(このかた)、一切の染法(せんぽう)と相應せざるが故なり、謂く一切の法の差別之相を離れたれば、虛妄の心念無きを以っての故なり。當に知るべし真如の自性は有相に非ず、無相にも非ず、非有相にも非ず、非無相にも非ず、有無俱相にも非ず、一相にも非ず、異相にも非ず、非一相にも非ず、非異相にも非ず、一異俱相にも非ず。乃至、總說せば、一切の眾生は妄心有るを以って、念念分別して、皆な相應せざるに依っての故に、說いて空と為す。若し妄心を離るれば、實には空ず可き無きが故なり。
言う所の不空者、已に法體は空にして妄無きを顯すが故なり。即ち是れ真心なり。常と恒と不變と淨法と滿足の故に、不空と名づくも、亦た相の取る可き有ること無し、離念の境界は唯だ證のみ相應するを以っての故なり。
心生滅者、如來藏に依るが故に生滅心有ることなり,謂う所は不生不滅與(と)生滅とを和合して、一に非ず異にも非ず。名づけて阿梨耶識と為す。
此の識に二種の義有り、能く一切の法を攝し、一切の法を生ず。云何が二と為す?一者、覺の義、二者、不覺の義なり。言う所の覺の義者、心體の離念を謂う。離念の相者、虛空界に等しく遍ざざる所無ければ、法界一相なり。即ち是れ如來の平等法身なり。此の法身に依りて說いて本覺と名づく。何以が故に?本覺の義者、始覺の義に對して說き。始覺者即ち本覺に同じと以ってなり。始覺の義者、本覺に依るが故に而して不覺有り、不覺に依るが故に始覺有りと說く。