管長日記「形のないいのち」解釈20241213

ブッダの悟り、ダンマから、臨濟、黄檗、馬祖と引用する。盤珪の不生の佛心をいう。いのちは佛心であって、馬祖の思想の要がブッダの悟りの本質をついている、という端的なのだろうし、わかる話だ。禅、というか仏教一般は修行論だと思う。特に禅は教育論の要素が強い。師弟の関係が多くある。
そもそもとして、ダンマの元義、ブッダというか悟ったゴータマが発生したときの対象、その認知と創発の捉え方、解釈について、ちょっと考えたくなるような話だった。
なお、仏教、というか宗教一般に倫理観を説くものという印象があるが、仏教的にはダンマパダがとても特徴的だろう。日本人的には、ことばとして、中村元の文がなんともいえず、良い。仏法と倫理との関係も、禅の話を聞いていると、どうもこのあたりがあいまいになっているようなきがする。(一応、悟り→不二→慈悲→度衆生→倫理みたいなことなのだが、論が長いし、別に悟りがなくても、世の中には倫理も慈悲もある。)

構成:
1.ブッダが何を悟ったか
2.臨済義玄のことば
3.黄檗希運のことば
4.馬祖道一のことば

■1.ブッダが何を悟ったか
「ブッダが何を悟ったかについて、玉城康四郎先生が『無量寿経 永遠のいのち』(大蔵出版)に書かれています。」

「ところで、ブッダが悟りを開かれました時に、三つのウダーナが歌われております。
初夜、中夜、後夜、つまり、日暮れ時、真夜中、それから明け方、それぞれ歌われております。ここでは、その三つの歌を一つにして挙げてみましょう。
「ダンマが熱心に禅定に入っている修行者に顕わになるとき、その時、一切の疑惑が消滅し、ついには太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安らかになっている」。
最初のダンマ というのはパーリ語でありまして、 サンスクリット語ではダルマ、即ち「法」と訳されております。法にはいろいろな意味がありまして、法則、原則、規則、或は教え、説法、行為など、さまざまであります。そして揚げ句の果ては、ありとあらゆる存在するものまで法と呼んでいるのであります。「諸法無我」という諸法とは、すべての存在するものという意味であります。
ところが、ここではそのいずれでもないのであります。では、いったい、ここでダンマというのはどういう意味であるのか。実は、それはまったく説明ができないのであります。」

「経典全体のどこをさがしても、ブッダはこのダンマについてコメントをつけておられません。
想像してみますに、一切の疑いが晴れて全人格体がサーッと開かれたときに、その開かれたそのものをたまたまダンマと名づけたのでありましょう。従いまして、強いて説明するならば、まったく形のないいのちの中のいのち、純粋生命とでもいう外はありません。しかし、純粋生命といったときに何かのイメージを描くならば、それはまったくここにいうダンマではないのであります。」

「この形のないいのちそのものであるダンマがゴータマに顕わになった時、その時、すべての疑惑が消滅する、いいかえればダンマ、形のないいのちそのものに全人格体が充たされる。これが悟りの原点であります。そうするとすべての疑惑がなくなって、やがて太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕する。悪魔の軍隊というのは煩悩をさしております。つまり、あらゆる煩悩を粉砕して、全人格体がスーッと安らかになったのであります。これこそがブッダの悟りの光景でありまして、まさしく仏教の始まりであります。そのダンマ、全く形を離れたいのちそのものは、つねに働いてやまないものであります。そのダンマが経典の中でやがて如来と呼ばれております。」

煩悩がなくなったときの、ブッダの感覚、観だという。
禅というのは、直接にこのときの状況を体得しようとするものなのだろう。そのようなアプローチなのだ。

■2.臨済義玄のことば
「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。」(入矢義高『臨済録』岩波文庫)

臨濟録示衆五
《鎮州臨濟慧照禪師語錄》卷1:
道流!心法無形,通貫十方,在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、在口談論、在手執捉、在足運奔。本是一精明,分為六和合。一心既無,隨處解脫。山僧與麼說,意在什麼處?秖為道流一切馳求,心不能歇,上他古人閑機境。道流取山僧見處,坐斷報化佛頭,十地滿心猶如客作兒,等妙二覺擔

■3.黄檗希運のことば
「師は裴休に言われた、あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものは全くない。この心というものは、初めなき永劫の昔よりこのかた、生じることもなく、滅ぶこともなく、形体もなければ、相貌もなく、有るとも無いとも枠づけできず、新しいとも古いとも定められず、長くもなく短くもなく大きくもなく小さくもなく、どのような計量と表現のしかたをも越えてあり、どのような跡づけかたと相対的な接近法からも遠く離れてあり、つまりは、そのものそのままがそれであって、それについての思念が働いたとたんに的をはずすことになる。それはちょうど涯もなくて測りようもない虚空のようなものだ。ほかでもないこの心こそが実は仏にほかならぬ。仏と人間とは、だからなんら異なるところはないのだ。ところが、すべて人間というものは、姿かたちにとらわれて、おのれの外に仏を求めようとする。求めれば求めるほど、それは見失われるばかりだ。」(入谷『禅の語録8 伝心法要・宛陵録』筑摩書房)

《黃檗山斷際禪師傳心法要》卷1:
師謂休曰。諸佛與一切眾生。唯是一心。更無別法。此心無始已來。不曾生不曾滅。不青不黃。無形無相。不屬有無。不計新舊。非長非短。非大非小。超過一切限量名言縱跡對待。當體便是。動念即乖。猶如虛空無有邊際不可測度。唯此一心即是佛。佛與眾生更無別異。但是眾生著相外求。求之轉失。

この傳心法要の冒頭の話だと思う。

■4.馬祖道一のことば
「一切の衆生は永遠の昔よりこのかた、法性三昧より出ることなく、常に法性三昧の中にあって服を着たり、飯を食ったり、おしゃべりしたりしている。(即ち衆生の)六根の運用きやあらゆる行為が全て法性である。しかるに、その本源に返ることができず、(悟りを求めて)名や形を追いかけまわせば、本源を見失った情がむやみに生起して、いろいろな業因を造ることになる」(『馬祖の語録』禅文化研究所)

《馬祖道一禪師廣錄(四家語錄卷一)》卷1:
一切眾生。從無量劫來。不出法性三昧。長在法性三昧中。著衣喫飯。言談祗對。六根運用。一切施為。盡是法性。不解返源。隨名逐相。迷情妄起。造種種業。

示衆2の後ろの方にある。

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