管長日記「岩頭和尚はまめ息災」解釈20241013

白隠禅師の話の3回目、富士山の宝永噴火から24歳の初めての大悟、そして正受老人のところに行く直前までのこと。悟ったときの調子の乗り方が、ちょっとおかしい。おそらくほぼ独力での悟ったということなのではないのだろうか。また悟ったときの偈も無いようだ。禅の作法というか習わしみたいなことは十分に知ってていてよさそうなものだ。

すごいエネルギーの人ともいえるだろう。生涯に亘っての活躍、そのオリジナリティを考えると、逆に納得するところもあって、興味深い。

管長日記としては、この一連の話は続き物であって、単品と思わない方がよい。

構成
1.「富士山宝永噴火」について
2.白隠禅師二十四歳、越後高田の英岩寺の生鉄和尚に参ず、大悟
3.道樹宗覚の英岩寺の掛錫

■2.白隠禅師二十四歳、越後高田の英岩寺の生鉄和尚に参ず、大悟
英岩寺の後、開基の越後高田藩主戸田忠真のお霊屋で坐禅をした。
『禅関策進』を師として日夜研究、ときには寝食を廃して坐った。
とある。完全に自力である。このこと自体はよくあるのかもしれない。

このとき、水晶世界にあるようで、森羅万象のいっさいが透明で一点の翳もないようであった、という。
慧鶴は、このように現われて来た境に執着することなく、なおも精神を奮起して、現われる境界にとらわれず、単々と重荷を荷って瞼しい嶺に登るように、参じていた話頭を拈提し、いついかなる時も、何をするときも、一つの異念もまじえずに工夫をつづけ、前後十数日を経た。

二月始めから十六日の夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。
そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、

「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。」
岩頭和尚は元気で達者だと叫んだ。

すぐに走って生鉄和尚に相見して、所見を呈した。和尚の対応が俊敏ではなかったので、慧鶴は和尚を平手打ちして室内を出た。
そのあと、仏灯和尚や長首座に会って、所見を述べたが、いずれも、機語が契わないので、払袖して去った。」

ということなので、他の人から見れば、悟ったのか何なのか、よくわからない状況なのだろう。悟った人間の態度、というものではないだろうが、空間的認識の有り方は、よく聞く「悟り」のものであるので、悟ったのだろう。厳密には、悟った、悟っていないは他人のわかるところではない。態度を見る(感じによって?)ようだ。

さて、このようなことは、語録などには書かれていないから、悟った人の本当の態度というのはよくわからない、ということもいえるだろう。白隠禅師は自伝も出しており、ある意味でリアルなところを示すことができたのかもしれない。また後年の自分の個性ともあっていたのだろう。当時、江戸の初、中期としては驚かれたのではなかろうか。明治、昭和の禅僧の話を考えれば、そんなにおかしなこととも思えない。ただ、とてもエネルギッシュだ。
「岩頭和尚豆息災」も公案になるかもしれない。

■3.道樹宗覚の英岩寺の掛錫
道樹宗覚は、後に道鏡慧堪(正受老人)を継いだ正受庵の2世であり、俗名は遠藤覚之進という。
飯山市のホームページ、市指定文化財のページに色々な資料がのっている。

はじめ飯山城中に仕え、松平忠俱の茶坊主であったが、恵端の風格に接し、城主に願ってその弟子となった。宗覚は諸方を行脚していたが、30歳の時人越後高田の英巌寺で白隠と出会い、宗覚は白隠に、恵端に会うことを強く勧めたとされている。これが機縁となって、白隠は恵端から臨済の骨肉を受け継ぐことができたのである。(道鏡慧堪は恵端と書かれている。)

道樹宗覚遺偈が掲載される。
辞世
  了得生前句 (了得す生前句)
  便知死後句 (便知死後の句)
  明月興清風 (明月清風と)
  万里絶消息 (万里消息を絶つ)
    喝 宗覚九拝

■飯山市の市指定文化財から
ほかに、恵端遺偈がある。
享保6年(1721)10月6日、恵端はこの遺偈を書き残し、80歳で示寂(じじゃく)した。
 大意は正受庵の前住職・酒井盤山氏によると、以下のとおりである。
 「末後一句」
  末後の一句とは、脱落心身の一句で、真如の一句と同じ意味のことであろう。
  また、「末期の一句と」は、まさに死にいどむ他人の句を見て表わすことであって、自分の一句という意味ではない。
 「死急難道」
  死急にしていい難しで、これは脱落心身の一句で、山は山でなく、脱落心身の山が山なのである。
 「言無言言」
  これは、言句を言句としない言句で、言句にとどこおらない言、言句にわたらない言という意味である。
 「不道不道」
  即ち、これが脱落の宗旨であると吐露されたと見るべきであり、分別など差しはさむことのできるものではない。

東嶺和尚讃無難和尚像というのもある。
東嶺禅師が建立したとされる「裁松塔(さいしょうとう)」が現在まで正受庵の残っている。
  打出四庵主
  摂成一野僧
  老愚堂種火
  闇夜桃狐燈
  安永十年四月日謹讃
  至道菴主肖像以留正受
  神菴之識
    法孫圓慈拝書 花押

■中野不白筆恵端老漢在世自偈
その飯山市の文化財から。不白居士は正受老人の弟子である。
偈の大意は、「自分は元来わがまま者である。だから世間の人々は、皆わからず屋の親父だという」と解釈できると思うが、これは反語的に読み取れば、「自分の求めている世界は、そうたやすく世間の人々にわかるはずがない」ということになる。

 恵端老漢在世自偈
  者老天生 (この老は天生)
  太煞顢頇 (はなはだまんかん)
  擧国僉言 (国をあげてみないう)
  無分暁漢 (無分暁漢(むぶぎょうかん)、と)
   不白九拝書

ブログ記事「「酒脱」正受老人のお弟子に、不白居士という人がありました。俗称中野七右衛門、奈良屋の主人~」を見つけた。
昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です、と書かれている。
その1節「酒脱1」から。

正受老人のお弟子に、不白居士という人がありました。
この人は、俗称中野七右衛門ともうし、飯山町の奈良屋の主人で、酒・醤油の醸造をやり、庄屋や町年寄を勤めた人ですが、早くから老人について参禅をこい、老人も親しくしていたられて、居士の家へもお茶をのみにゆかれることもありました。
ある日不白居士が、御飯をさしあげたいからと正受老人を自分の家へお招きし、居士の知合の人々も二三人その席にお相伴をしておりました。
よもやま話にいつしか日も暮れ、外がすっかり暗くなりました。正受老人がふとかわたへ立たれた折、居士はそばの人へ申しました。
「一つ正受老人をびっくりするかどうか試してみようではないか」
と、こっそり暗い所にかくれ、老人が出て来られるのを待ち構えておりました。ほどなく老人が出て来られるや、やにはにとび出て胸をとらえ、大きな声で、
「これなんぞ」
とやりました。
正受老人はその時少しもさわがず、いつも通りな声で、
「わしもしらんわい」
と、笑っておられました。

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