管長日記「一日勉強」解釈20241030

一日勉強となっているが、老師は1つの講座は講師なので、ちょっと違う。
今日の話は、なかなか重要だと思う。まだ、戒名には興味は無いが、禅籍を読んでいて、僧侶や貴族、皇族の名前など、なかなか複雑なので、聞いておきたい話だった。ちなみに、国師は天皇(皇族でよかったか?)が弟子になった場合に禅僧に名付ける、禅師も天皇、皇族が付けると聞いたような気がするが、ともかく影響力の大きかった禅僧につけるということだった。

ハラスメントについては、まだ観念的な感じで言っているような気がする。そもそも仏教が心のことを課題としているので、問題になりにくいのか、各僧侶も自分をよく顧みるので、周りに訴えるということをしないためかもしれない。またこのような問題を解決すること自体が僧侶としての能力獲得であって、訴えるものでもないのかもしれない。もっともごちゃごちゃした話もあるだろう。

世間的には、実のところ、宗教について言うこと自体が、プライバシー領域の話であって、なかなかむつかしいところがある。昭和の後半以降、確かに難しいところがあるだろう。老師の、この日記のような取り組みは、認知にはよいことだろう。

■1.戒名高座
「戒名」は、「〔仏〕受戒の際に与えられる名。本来生前に与えられるものであるが、平安末期から死者に対して与えられるようになった。浄土真宗では戒を受けないので法名という。」(『広辞苑』)
仏教徒としての名前をいただくのです。

「もと、受戒した者に与えられた名。この意味の戒名は<法名><法号>と同義。
法名は、中国・日本を通じてみられるように、仏教に帰依入信した者に授けられた。
したがって、浄土真宗や日蓮宗などのように通例の戒の授受を行わなくとも、戒名=法名を授けているし、戒名は出家・在家の区別なく与えられた。
戒名には2字の名が多かったが、出家の場合には、戒名=僧尼名のほかに諱(いみな)や房号・道号・字(あざな)などをもっている。」(『仏教辞典』)
禅宗では出家すると諱をつけてもらい、更に和尚になると道号を授かります。

「戒名=法名はもとより生前入信したときに与えられたが、在家の男女が死後、僧から<法名>を与えられることが行われるようになり、これをも<戒名>とよんだ。
この種の戒名は、日本では中世末期ごろからみられ、近世の檀家(だんか)制度のもとで一般的となり、戒名といえば、この死後授与の法名を指すようになり、むしろ法名・法号は出家の戒名を意味するようになった。
さらに戒名の下に、男性には居士(こじ)・禅定門(ぜんじょうもん)・信男(しんなん)・信士(しんじ)、女性には大姉(だいし)・禅定尼・信女、子供には童子・童女などの号をつけ、戒名の上に院号・院殿号などを冠することも行われ、現代に至っている。
ただし真宗では、<釈>(男性)、<釈尼>(女性)の字を2字の法名に冠するのを通例とする。」(『仏教辞典』)
ここにある通りもとは生前に仏教徒として入信したときに与えられていました。

それが臨終になって授戒することも行われるようになったのです。
日本では淳和天皇がそのはじめだとされています。淳和天皇は、西暦七八六年のお生まれで、八四〇年にお亡くなりになっています。在位は、八二三年から八三三年までです。承和七年(八四〇)臨終に出家されたのでした。
平安時代には、皇族や貴族のあいだでは、死に瀕して在家のままで戒を授かり出家となったのでした。そののち、死後に在宅のままで剃髪して戒を授け出家とするようになっていったのでした。
円覚寺の開基である北条時宗公もまた、臨終に仏光国師戒師のもとで出家なされています。落髪の法語などが佛光録に残されています。戒名には、居士や大師という号がつきます。

「居士」
もとはサンスクリットの「グリハパティ」で、「<家の主人>の意であるが、特に商工業に従事する資産者階級(ヴァイシヤ、吠舎(べいしゃ))を意味した。経典などに出るこの語を中国では<居士>と訳した。また(優婆塞(うばそく)と音写。男性の在家(ざいけ)信者)の訳語としても用いられる場合がある。
今日では、特に禅を修行する在家の者によく用いる。なお、男子の法名の下につけられ、<大姉>の対であるが、中国の禅録には、女居士の例もあった。」(『仏教辞典』)

居士と呼ばれるための四つ徳(『祖庭事苑』)
一には仕宦(官)を求めず。役人ではないことです。
二には寡欲にして徳を蘊(つ)む。欲をもとめず功徳にはげむことです。
三には財に居して大いに富む。財力のあることです。
四には道を守ってみずから悟る。仏道に精進し悟りを開くことです。

今でも実際に参禅修行して老師から居士号を与えられることもあります。

臨終に出家した淳和天皇というと散骨されたことでも知られています。

山田無文老師は『碧巌録提唱』の中で第十八則慧忠国師無縫塔の公案で、
「老衲が死んだら形見に残すものは何もない。
春は花、夏はホトトギス、秋は紅葉葉、皆咸く老衲の形見だからよく見てくれ。
良寛さんはそう詠われたそうだが、この全宇宙がそのまま墓だ。
全宇宙がそのまま老衲なのだから、老衲が死んだら全世界がそのまま墓だ。その墓の中には一切衆生ことごとく平等に暮らしている。
それは皆老衲だ。
特別に佛だの凡夫だのという差別はいらん。北極の果てから南極の果てまでぶち抜いている。」

「わしが死んでも墓などいらん。全宇宙がわしの墓で、その中に生きているものは皆わしだ。永遠にわしは生きておる。そこに慧忠国師の無縫塔があるはずであろう」と仰せになっています。
そのあとで、
「淳和天皇は遺言に「オレが死んだら墓を建てる必要はない。焼いて粉にして風の吹く日にまいてくれ。」と言われた。
昔の人は正直なものだ。大原野の山の上で天皇を火葬にして粉にして、風の吹く日にまいたということである。だから淳和天皇の陵は山全体が陵である。山どころではない宇宙全体が墓だ。」

後に幕末の陵墓修復の際、小塩山山頂付近に大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)と称する陵墓が築かれたといいます。

《佛果圜悟禪師碧巖錄》卷2:
【一八】舉。肅宗皇帝(本是代宗此誤)問忠國師。百年後所須何物(預搔待痒。果然起模畫樣。老老大大作這去就。不可指東作西)國師云。與老僧作箇無縫塔(把不住)帝曰。請師塔樣(好與一剳)國師良久云。會麼(停囚長智。直得指東劃西。將南作北。直得口似匾檐)帝云。不會(賴值不會。當時更與一拶。教伊滿口含霜。却較些子)國師云。吾有付法弟子耽源。却諳此事。請詔問之(賴值不掀倒禪床。何不與他本分草料。莫搽胡人好。放過一著)國師遷化後(可。惜果然錯認定盤星)帝詔耽源。問此意如何(子承父業去也。落在第二頭第三頭)源云。湘之南潭之北(也是把不住。兩兩三三作什麼。半開半合)雪竇著語云。獨掌不浪鳴(一盲引眾盲。果然隨語生解。隨邪逐惡作什麼)中有黃金。充一國(上是天下是地。無這箇消息。是誰分上事)雪竇著語云。山形拄杖子(拗折了也。也是起模畫樣)無影樹下合同船(祖師喪了也。闍黎道什麼)雪竇著語云。海晏河清(洪波浩渺白浪滔天。猶較些子)瑠璃殿上無知識(咄)雪竇著語云。拈了也(賊過後張弓。言猶在耳)。

雪竇禅師の頌が、良いではないか。
無縫塔(這一縫。大小大。道什麼) 見還難(非眼可見。瞎)
澄潭不許蒼龍蟠(見麼。洪波浩渺。蒼龍向什處蟠。這裏直得摸索不著)
層落落(莫眼花。眼花作什麼) 影團團(通身是眼。落七落八。兩兩三三舊路行。左轉右轉隨後來)
千古萬古與人看(見麼。瞎漢作麼生看。闍黎覷得見麼)

なお、禅僧の記録については、名前や諱は重要である。五燈会元で一例を引くが、名前に始まり、名前に終わる。

《五燈會元》卷15:
雲門宗
青原下六世
雪峰存禪師法嗣
韶州雲門山光奉院文偃禪師
嘉興人也。姓張氏。幼依空王寺志澄律師出家。敏質生知。

以乾和七年己酉四月十日。順寂。塔全身於方丈。後十七載。示夢阮紹莊曰。與吾寄語秀華宮使特進李托。奏請開塔。遂致奉勑迎請內庭供養。逾月方還。因改寺為大覺。[A23]諡大慈雲𭅕真弘明禪師。

これは有名な雲門禅師の項なのだが、パッと気付けただろうか。ストレートに雲門文偃と書かれるようなこともないのではなかろうか。よく雲門偃とも書かれる。

■2.ハラスメント講義
「修行であれば何でも許される?」かとして、
「たとえば、修行僧は自ら修行がしたくて修行に来ているのであって、 お寺はそれを許可しているに過ぎず、修行が嫌になったら辞めれば良いのだから、修行はパワハラにあたらないという考え」を持っているかもしれませんが、
そうはいかないということでした。
「何をやっても良いという話にはなりません」のであって、
「修行関係であれ雇用関係であれ、一旦は社会的な関係を持った以上、優位な立場の者(会社、 上司、 お寺)は、弱い立場の者 (労働者、部下、修行僧) に思いやりや敬意をもって対応するという心構えが必要である」と学びました。
今の時代、修行道場であってもいろいろと配慮しないといけません。

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