大乘起信論(14)
又た問うて曰く、「若し諸佛にして自然業(じねんごう)有りて、能く一切處に現じて眾生を利益する者、一切の眾生は若しくは其の身を見て、若しくは神變(じんぺん)を覩て、若しくは其の說くを聞いて、利を得ざること無けんに、云何ぞ世間は多く見ること能はざうるや?」
答えて曰く、「諸佛如來は法身は平等にして一切處に遍じ、作意すること有ること無きが故に、而も自然なりと說くも、但だ眾生の心に依りてのみ現わる。眾生の心者、猶お鏡に於けるが如く、鏡にして若し垢有らば、色像は現れず、是の如く、眾生の心にして若し垢有らば、法身は現われざるが故なり。」
已に解釋(げしゃく)分を說きたれば、次に修行信心分を說かん。
是の中には、未だ正定に入らざる眾生に依るが故に、信心を修行することを說くなり。何等の信心なりや?云何が修行せん?略說せば信心に四種有り。云何が四と為す?一者、根本を信ずると、謂う所は真如法を樂念(ぎょうねん)するが故なり。二者、佛に無量の功德有ると信ずると、常に念じて親近(しんごん)し供養し恭敬して、善根を發起し、一切智を願求(がんぐ)するが故なり。三者、法に大利益有りと信ずると、常念して諸の波羅蜜を修行するが故なり。四者、僧の能く正しく自利利他を修行すると信ずと、常に樂(ねご)うて諸ろの菩薩眾を親近して、如實の行を學することを求めんが故なり。
修行に五門有りて、能く此の信と成ず。云何が五と為す?一者、施門、二者、戒門、三者、忍門、四者、進門、五者、止觀門なり。
云何が施門を修行せんや?若し一切の來たって求索(ぐさく)する者を見れば、所有(あらゆ)る財物を力に隨って施與し、自ら慳貪を捨つるを以って彼をして歡喜せ令めよ。若し厄難と恐怖と危逼とを見れば、己(おのれ)の堪任に隨って無畏を施與せん。若し眾生の來たって求法する者有らば、己の能く解する方便に隨って為に說け。應に名利と恭敬とを貪求せず、唯だ自利と利他とを念ずるのみにして菩提に迴向するが故なり。
云何が戒門を修行せんや?謂う所は殺さず、盜まず、婬せず、兩舌せず、惡口せず、妄言せず、綺語せず,貪嫉、欺詐、諂曲、瞋恚、邪見を遠離せん。若し出家者ならば、煩惱を折伏(しゃくふく)せんが為の故に、亦た應に憒閙(かいにょう)をも遠離して常に寂靜に處し、少欲と知足と頭陀と等の行を修習し、乃至、小罪にも心に怖畏を生じ、慚愧し改悔して、如來の制せし所に於いて禁戒を輕ずることを得ざれ。當に譏嫌を護って、眾生をして妄(もう)に過罪を起さ令めざる故なり。
云何が忍門を修行せん?謂う所は應に他人之惱を忍びて心に報すること懷(おも)わざれ。亦た當に利と、衰、毀、譽、稱、譏、苦、樂、等の法に於いて忍ぶべき故なり。