管長日記「大山詣で」解釈20241120
イス坐禅の会の翌日に、大山詣でをする、というのはなんとも元氣だと思う。本格的な登山といったものでもないのだろうが、低い山でもない。お休みの日など、ないのだろうし、気にもしてないのだろう。
構成:
1.大山について
2.「大山詣で」の意味
3.てるてる坊主
4.ケーブルカーと阿夫利神社
5.六根清浄
仏教的なトリビア集だった。
■1.大山について
「大山というのは、神奈川県の伊勢原市にある山であります。」
「神奈川県中部にある山。一名、雨降山(あめふりやま)。頂上の大山阿夫利神社は雨乞いの神。標高1252メートル。」(『広辞苑』)
「千メートルを超える山ですが、登山道が整備されているので、安心して登ることができます。修行僧達皆と一緒に登山してきたのでした。」
こうなると、修行っぽい。
■2.「大山詣で」の意味
「夏、大山阿夫利神社に白衣振鈴の姿で講社連中が参詣する行事。江戸中期、宝暦の頃より盛行。大山参り。石尊参り。」(『広辞苑』)
「江戸時代のひとつの文化だったようです。それで落語にもなっているのです。」
ほぅ!
落語「大山詣り」、「大山詣りの帰りに、酒でしくじって仲間に丸坊主にされた男が、仕返しする話。」(『広辞苑』)
仏教的信仰の深い山として、「丹沢山系の東南端に位置し、神奈川県厚木市・秦野市・伊勢原市にまたがる山岳信仰の山。標高1252メートル。別名を<阿夫利山(あふりやま)>ともいうが、これは「あめふり(雨降)山」の訛りで、かつて雨乞(あまごい)祈祷を行なっていた名残ともいう。山頂に現在は阿夫利神社の御神体となっている、石尊大権現(せきそんだいごんげん)と呼ばれる自然石があり、これを依代(よりしろ)とした原始信仰から、次第に神仏習合の霊場として発展していった。とくに近世には、江戸から近いこともあって<大山詣で>が盛んとなり、落語の題材ともなった。中腹にある大山寺(だいさんじ)・(おおやまでら)は、明治維新の神仏分離まで一山を管理していた寺で、縁起によれば東大寺の造営に尽力した良弁(ろうべん)の開山と伝え、鎌倉時代の鉄造不動明王像を本尊としている。」(『仏教辞典』岩波書店)
縄文時代とか、大昔からあったということだろう。
祈祷といえば、雨乞いである。
■3.てるてる坊主
「晴天を祈って、軒下などにかけておく紙製の人形。晴天となれば、睛(ひとみ)をかきいれ神酒を供えた後、川に流す」(『広辞苑』)
「世の中が便利になると、祈る心も薄らぐのかもしれません。しかし、大自然は今も時には人の想像を超えた災害をもたらすこともあります。やはり敬虔な気持ちで祈ることは大事であります。」
そうかもしれない、祈ることといえば、人に関する事ばかりのような気がする。だいたい、個人的な自分や身近な人の幸運。
災害みたいな規模になると、「対策」という感じになる。平和についても、そんな気がする。
「年に一度は、修行僧達と共に、この霊山に登って世の中が安穏でありますようにとお祈りしています。」
ただ、祈ってみる、というはいいことかもしれない。
「修行僧たちにしてみれば、リクレーションのようなもので、楽しく登っています。」
そんなに楽な山なのか、それとも円覚寺の修行は日々登山以上なのか。旅行みたいなことか。
■4.ケーブルカーと阿夫利神社
「ケーブルカーも便利で、途中の下社まで登ることができます。昭和六年に開業されていますので、とても古いものなのです。
大山ケーブル駅で標高は約四百メートルです。そして大山寺の駅で、五百十二メートル、終点の阿夫利神社駅で、標高六百七十八メートルであります。大山阿夫利神社(下社)にすぐにお参りすることができます。」
■5.六根清浄
「よく行者さんは、六根清浄と唱えたと言われています。」
なるほど。
「六根清浄」(『広辞苑』)
①六根が福徳によって清らかになること。
②天台でいう六根清浄位。菩薩の位。六根互用。
③登山の行者、寒参りする者などの唱える語。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官をいいます。
「<六根浄>ともいう。<六根>は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つをいう。これは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五つの感覚器官と、認識し思考する心とに当たり、この汚れがもろもろの煩悩を起こさせる源とされる。六根清浄とは、この六つの汚れが除かれ心身ともに清らかになることをいう。法華経法師功徳品において法華経信仰の功徳として説かれたのが由来。日本には、登山の行者が金剛杖を手にもち、六根の不浄を浄めるために「六根清浄」と唱え念ずる風習がある。また六根から生じる不浄を払い清めるための<六根清浄祓(はらえ)>といわれる詞があり、近世以後に流布した有名な六根清浄祓は、「天照皇太神の宣く」ではじまり「無上霊宝神道加持」という吉田神道流の詞で終わっている。」(『仏教辞典』)
妙法蓮華經法師功徳品第十八
爾時佛告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華經。
若讀若誦若解説若書寫。是人當得八百眼功徳。千二百耳功徳。
八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。
以是功徳莊嚴六根皆令清淨。
六根清浄大祓(ろっこんしょうじょうおおはらえ)
天照大神(あまてらしますすめのおおかみ)の宣(のたわ)く。
人はすなわち天(あめ)が下の神物(みたまもの)なり。
すべからく静まることをつかさどる心はすなわち神明(かみとかみ)との本(もと)の主(あるじ)たり。
心神(わがたましい)を傷(いた)ましむることなかれ。
このゆえに眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。
耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず。
鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。
口に諸々の不浄を言って、心に諸々の不浄を言わず。
身に諸々の不浄を触りて、心に諸々の不浄を触らず。
意(こころ)に諸々の不浄を思うて、心に諸々の不浄を思わず。
この時に清く潔(いさきよき)ことあり。
諸々の法(のり)は影と像(かたち)のごとし。
清く淨(きよ)ければ 仮にも穢るること無し。
説(こと)を取らば得(う)べからず。
皆、花よりぞ木の実とは生(な)る。
わが身はすなわち六根清浄なり。
六根清浄なるがゆえに 五臓の神君安寧(しんくんあんねい)なり。
五臓の神君安寧なるがゆえに 天地の神と同根なり。
天地の神と同根なるがゆえに 万物の霊と同体なり。
万物の霊と同体なるがゆえに 成すところの願いとして 成就せずということ無し。
無上霊宝神道加持(むじょうれいほうしんどうかじ)
この六根清浄大祓は、結構おもしろい。検索して欲しい。
「六根清浄祓には
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず」
「また山に登ると、不思議とすれ違う方、出会う人ごとにお互いに挨拶をします。これもまた気持ちのいいものです。」
そうそう。恥ずかしくないし、なんか安心感みたいなものがあるのだろう。