僧擬議、不可向虛空裏釘橛去也

『臨濟録』上堂一 「府主王常侍」より

府主(ふしゅ)王常侍(おうじょうじ)、諸官與と師を請き升座(しんぞ)す,師、上堂にて、云く、「山僧(さんぞう)今日、事已(や)むを獲ず、曲てげ人情に順って、方(まさ)に此の座に登る。若し祖宗門下に約して大事を稱揚せば、直に是れ口を開き得ず、爾が足を措く處無けん。山僧、此の日、常侍の堅く請ずるを以って、那(なん)ぞ綱宗を隱さん。還た作家の戰將の直下(じきげ)に陣を展べて旗を開くもの有り麼?眾に對して證據(しょうこ)し看よ。」僧問う、「如何なるか是れ佛法の大意?」師便ち喝す、僧禮拜す。師云く、「這箇(しゃこ)の師僧、却って持論するに堪えたり。」
問う、「師は誰が家の曲を唱えん?宗風を阿誰(たれ)に嗣ぐ?」師云く、「我れ黃蘗の處に在って、三度問いを發し、三度打た被(る)。」僧擬議す、師便ち喝して、後(しりえ)に隨って打って云く、「虛空裏に向って釘橛(ていけつ)し去る不可也(べからず)。」

府主王常侍與諸官請師升座,師上堂,云:「山僧今日事不獲已,曲順人情方登此座。若約祖宗門下稱揚大事,直是開口不得,無爾措足處。山僧此日以常侍堅請,那隱綱宗,還有作家戰將直下展陣開旗麼?對眾證據看。」僧問:「如何是佛法大意?」師便喝,僧禮拜。師云:「這箇師僧却堪持論。」問師:「唱誰家曲?宗風嗣阿誰?」師云:「我在黃蘗處,三度發問,三度被打。」僧擬議,師便喝,隨後打,云:「不可向虛空裏釘橛去也。」

管長日記2025/1/19は、僧擬議,師便喝,隨後打,云:「不可向虛空裏釘橛去也。」の一文を徹底的に比較し解説する。

「~
僧はここでもたついた。
すかさず師は一喝し、追い打ちの一棒をくらわして言った、「虚空に釘を打つような真似はするな。」

小川隆『臨済録のことば』
「「王常侍」の要請に応じて説法の座についた臨済だが、しかし、禅門の本義からすれば、第一義はコトバによって説明されるべきものではない。
それを敢えて云々しようとすることは、無相なる虚空に杭を打ち込むような所業でしかない。
それゆえ師の一喝に無言の礼拝で引き下がった僧はむしろ賞せられ、議論を重ねようとした僧は、痛打によって問題を発問以前のところに突き返されてしまったのであった。」

「僧擬議す」というところ、
朝比奈宗源老師の『臨済録』、「ぐずぐずっとする」と註釈
入矢「もたついた」と訳
麟祥院での小川先生、擬議は「なにか言おうとする」
何か言おうとしたところを一喝されてしまったのです。

最後は「師便ち喝して、後に随って打って云く、虚空裏に向って釘橛し去るべからず。」とありますが、「後に随って」は「すぐそのあとに」という副詞であります。

「釘橛」
朝比奈『臨済録』「虚空に釘を打つような無駄な真似はするな」
入矢「虚空に釘を打つような真似はするな。」
小川「虚空に杭を打ってはならぬ」

「釘」は「釘」という名詞でありますが、「釘を打つ」という動詞としても使われます。「釘橛」で杭を打つこと。

上堂の問題点は「禅門の本義からすれば、第一義はコトバによって説明されるべきものではない。」にある。
これは、『臨濟録』では次である。

道流!心法無形,通貫十方,在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、在口談論、在手執捉、在足運奔。本是一精明,分為六和合。一心既無,隨處解脫。

「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通して はたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。」

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