管長日記「護法と魔障」解釈20241203
昨日12月2日は臘八接心の二日目となる。
今週は臘八攝心週間である。早朝の日記。昨日は『臘八示衆』と題して、「臘八示衆朔日」の講話であった。白隠禅師の臘八示衆の第二夜を採り上げる。
このまま一週間続けて欲しい。禅に興味をもって、継続するひとなら1年経つと、接心のことを知って、また提唱(老師の講話)にも興味をもつだろう。白隠の文章は割と流通していないので、この接心示衆から入るのは良いと思うのだが、なんとも入手し難いし、よくよく調べないと目にすることもないだろう。資料性が高い。
臘八示衆の提唱文は、書籍としては山本弦峯『無門関提唱』くらいしか見たことが無いし、この本も入手は難しい。筆者は昭和62年の第21刷を持っているが、古本でなかなか味のある状態である。
なお、禅関係の文書は古くても価値が変わらない。漢文だろうと古文だろうと、明治だろうが昭和前期だろうが、読んだ方がよいだろう。江戸くらいなら、古文とはいえ割とストレートに読めるものだ。
構成:
1.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆
2.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、第一文「第二夜示衆曰~十方虚空悉消殞」
3.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、第一文の山本玄峰老師見解
4.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「凡修道處~則賊盜亦隨聚」
5.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「心願強則~須要發大誓願」
6.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「專辭讓謙遜~咸皆度脱」
7.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「佛祖大道無有無願力~須要徹大道淵源」
8.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「如是念念不退~如俯拾地芥焉也」
よくわかる内容だった。
■1.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆
「臘八摂心の第二夜の白隠禅師の示衆を読んでみます。一文ずつ読みながら、解釈を加えてみます。」
まずテキストを示す。SATより取得できる。
東嶺圓慈『五家參祥要路門』「附録二門」
第二夜示衆曰。楞嚴經曰。一人成道歸眞。十方虚空悉消殞。凡修道處。
必有護法神。有魔障神。譬如城巿人多聚。則賊盜亦隨聚。
心願強則護法神得力。心魔動則障神得力。是故學道者先須要發大誓願。
專辭讓謙遜。置心於一切衆生下。咸皆度脱。佛祖大道無有無願力而能徹底者。
譬如學射者。一箭一箭欲中鵠。始雖不中。久而不已。必得其妙。參學亦復然。
一念一念起大憤志。抖擻精神。須要徹大道淵源。如是念念不退。
一切法理無不現前。無上菩提猶如俯拾地芥焉也
■2.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、第一文「第二夜示衆曰~十方虚空悉消殞」
「第二夜示衆曰。楞嚴經曰。一人成道歸眞。十方虚空悉消殞。」
「第二夜示衆に曰く、楞嚴經に曰く、一人道を成じ真に帰すれば、十方虚空悉く消殞すと。」
「楞厳経の一文を引用されています。実際に『首楞厳経』には、「一人真を発して元に帰すれば、此の十方の空皆悉(ことごと)く銷殞(しょういん)す」(一人發真歸元,此十方空皆悉銷殞)となっています。一人が真実の心を発して、大道の元に帰れば、十方の虚空はみなすべて消えてしまうというのです。銷殞の銷はとかす、とける、きえるという意味で、殞は落ちる、穴に落ちて見えなくなるという意味です。この楞厳経の言葉は後によく使われるようになりました。」
10巻本の首楞嚴經の文のようである。
(wiki)『首楞厳経』10巻(しゅりょうごんきょう、具名は『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』、また『楞厳経』『大仏頂経』とも)は大正蔵第十九巻 (密教部) No.945に収められている。巻第1冒頭に置かれた文によると、唐の神竜元年(705年)に広州の制止道場で般刺密帝(ばんらみたい、中国語版)が訳出、これを房融中国語版が筆受、弥迦釈迦が訳語したとされている。
首楞嚴經には4巻本、7巻本、10巻本があり、達磨大師が二祖慧可に伝えたのは4巻本のようだ。4巻本は難解といわれる。
引用は次の中程にある。
《大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經》卷9:
佛告阿難及諸大眾:「汝等當知有漏世界十二類生,本覺妙明覺圓心體,與十方佛無二無別。由汝妄想迷理為咎,癡愛發生,生發遍迷,故有空性;化迷不息,有世界生。則此十方微塵國土,非無漏者,皆是迷頑妄想安立。當知虛空生汝心內,猶如片雲點太清裏。況諸世界在虛空耶?汝等一人發真歸元,此十方空皆悉銷殞;云何空中所有國土而不振裂?汝輩修禪飾三摩地,十方菩薩及諸無漏大阿羅漢心精通㳷,當處湛然。一切魔王及與鬼神、諸凡夫天,見其宮殿無故崩裂,大地振坼;水陸飛騰,無不驚慴。凡夫昏暗,不覺遷訛。彼等咸得五種神通,唯除漏盡,戀此塵勞,如何令汝摧裂其處?是故神鬼及諸天魔、魍魎、妖精,於三昧時僉來惱汝。
「五祖法演禅師は、上堂でこの楞厳経の言葉を取り上げて、自分ならばそうは言わないと言っておいて、「若一人有って真を発して源に帰すれば、十方虚空築著磕著」と述べています。「築著磕著(ちくじゃくかっじゃく)」というのは、ものにいきあたる様をいい、どこもかしこも真にぶち当たるという意味であります。いたるところ、何に触れようが、何に当たろうがみなすべて真実だというのです。」
これだと思う。
《法演禪師語錄》卷1:「上堂。舉古人道。若有一人發真歸源。十方虛空悉皆消殞。雙泉則不然。若有一人發真歸源。十方虛空築著磕著。」
弟子の圓悟禅師は次のように拾っている。
《圓悟佛果禪師語錄》卷8:「五月旦日上堂云。鐵樹𩰀鬆石牛哮吼。火雲亘天長萬丈。金烏普照大光明。直得東海鯉魚振鬣揚鱗。南國波斯呈橈舞棹。文殊普賢不敢說理說事。德山臨濟不敢行棒行喝。正恁麼時會麼。拄杖擬吞三世佛。燈籠百解瀉明珠。復云。釋迦老子道。若有一人發真歸源。十方虛空悉皆消殞。五祖和尚又云。一人發真歸源。十方虛空築著磕著。山僧即不然。若有一人發真歸源。十方虛空錦上鋪華。」
「楞厳経では一人が真実の心を発して大道の元に帰れば、この迷いの苦しみの世界はすべて消えてしまうと説かれたのでした。」
■3.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、第一文の山本玄峰老師見解
山本玄峰『無門関提唱』(p.26)
「楞厳経の中に、一人ほんとうの道を成じたならば、『真に帰すれば』真はまことのこと。土佐の人はほんとうにまつことよというが、そのほんとうにまつことの真、これは動くまことじゃない。一番まことの根本である。道を修するところ、『十方消殞』というと、十方が自分のものにならにゃいかん。自分と宇宙とが二つにならないための悟りじゃから。が、しかし消するというても、なにもかもなくなってしまうのじゃない。すべて蠢動含霊の蛆虫に至るまで、蟻のヒゲまでが、ことごとく自分のものにならにゃいかん。だからブヨ一匹むだに殺してはならん。消殞というても無くなるのではない。みな自分のものになるのじゃ。」
南嶺老師、「さすが老大師のご体験からきた読み込みであります。」
■4.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「凡修道處~則賊盜亦隨聚」
「凡修道處。必有護法神。有魔障神。譬如城巿人多聚。則賊盜亦隨聚。」
「凡そ道を修する処、必ず護法神有り、魔障神有り。譬えば城市に人多く聚るときは、賊盜亦隨って聚るが如し。」
「仏道を行じていると、必ずそれを助けてくれる神もあれば、さまたげとなる神もあるというのです。それは町で多くの人が集まると、盗人などもそこに集まってくるようなものだと説かれています。
■5.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「心願強則~須要發大誓願」
「心願強則護法神得力。心魔動則障神得力。是故學道者先須要發大誓願。」
「心願強きときんば護法神、力を得。心魔動くときんば魔障神、力を得。」
「心の願い、願心です。仏道精進を強く心に願う心です。この願心が強ければ、護法の神が力を得ることになるし、逆に弱いと、魔障の神が力を得ることになると白隠禅師は説かれます。」
■6.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「專辭讓謙遜~咸皆度脱」
「專辭讓謙遜。置心於一切衆生下。咸皆度脱。」
「是の故に学道は先ず須く大誓願を発し辞譲謙遜を専らにし、心を一切衆生の下に置き、咸く皆度脱せんことを要すべし。」
「仏道修行するには、まず大きな誓いの心、願心を発して、へりくだる心を起こして、心を一切の生きとし生ける者の下に置いて、それら生きとし生けるものをすべて救ってゆこうと願うことが必要なのです。」
玄峰老師はご自身の体験をもとに次のように説いてくださっています。(『無門関提唱』、p.27)
「そうして道を修していくならば、必ず護法神が助けてくれる。われわれがやっていけるのはみな護法神のおかげである。護法神が、食べる物もしてくださる。ありがたいことじや。
わしがここへ来た時分には着て寝る蒲団も何もありません。仏さまに備えるお椀一つも茶碗一つもなかった、金物というたら鍋一つもありはせん。それでも護法善神のおかげで、護法の人のおかげで、今では蒲団がないとか何とかいうておるけれども、これだけの人が何とかやっていける。わしの来たときは、着て寝る蒲団も何もありはせん。
横になって寝ると朝なかなか起きられないから、いつもあのいま新命(龍沢寺主)和尚のおるところで、こうやつて壁へもたれて坐睡した。坐睡というのはちょっと頭に重いものをかぶると寒うてもぐあいが悪いものだから、縞の紀州ネルの近ごろまであったがあいつを頭へかぶってずっとやっておった。それでもおかげさまで揃うた座蒲団百枚もこしらえてくれるし、はげたお椀も塗り直してくれる。今でも畳など汚いけれども、汚くても、わしが来たときには瓦を葺いた棟一棟もないのじゃから、あつちからもこつちからも雨がどんどん漏る。今の禅堂でも萓やワラを詰めておつた。それが、とにもかくにも坐れるようになった。みなこれ護法神の力じゃ。」
このあと、もう一つのエピソードを語って(p.28)、南嶺老師は「実体験からくる言葉です。また更に驚くことには、護法の神というのはもっと身近にいるというのです」と引用する。
「わしは此処に来た時、鼠に「お前達は先祖代々ここにおるのじゃから、われわれはあとから来た新参であと入りじやがどうか万事よろしく頼むぞえ」というて、鼠に頭下げた。ただ頭下げるだけじゃない。今でも毎晩少しずつでも米なんかやつて仲よう暮しておる。それじゃからそこらを囓りもしないし、穴をあけたりもしやしない。みな護法善神じゃ。 猫でもでも犬でも猿でもでも鳥でもみなわれわれを救うてくれる、こつちの心得方ひとつじや。」
「真実の道を求める心を発して修行しているとみな守ってくれるということです。」
■7.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「佛祖大道無有無願力~須要徹大道淵源」
「佛祖大道無有無願力而能徹底者。譬如學射者。一箭一箭欲中鵠。始雖不中。久而不已。必得其妙。參學亦復然。一念一念起大憤志。抖擻精神。須要徹大道淵源。」
「仏祖の大道、願力無くして能く徹底する者有ること無し。譬えば射を学ぶ者の如し。一箭一箭、鵠に中らんことを欲す。始め中らずと雖も、久しくして已まざれば、必ず其の妙を得。参学も亦復た然り。一念一念、大憤志を発し、精神を抖藪して、須く大道の淵源に徹せんことを要すべし。」
「この仏祖の道というのは、この願心の力がないと、徹底できるものはないというのです。たとえば弓を習うようなもので、はじめは的に当たらないのですが、何度も何度も繰り返し修練していると、上達するのです。仏道修行も同じだというのです。大憤志を発して、精神を振り払って、大道の源に徹することです。
■8.白隠禅師の臘八摂心第二夜示衆、「如是念念不退~如俯拾地芥焉也」
「如是念念不退。一切法理無不現前。無上菩提猶如俯拾地芥焉也」
「是の如く念念退かざるときは、一切の法理、現前せずということ無し。無上の菩提、猶お俯して地芥(ちかい)を拾うが如くならん。」
「このようにして努力を重ねてゆけば、あらゆる法理は目の前に現れて、この上ない悟りといっても、地上のゴミを拾うようなものだと説かれています。」
老師は一言で「よしやるぞという願心が一番のもとなのです」とまとめる。