正狗不偸油、雞燈盞走
正狗(しょうく)油を偸(ぬ)すまず、雞燈盞(とうさん)を啣(ふく)んで走る。
五燈会元の智嵩禪師の項にある言葉。(風穴延沼―首山省念―三交智嵩―浮山法遠;法遠去らずの人)
《五燈會元》卷11:
并州承天院三交智嵩禪師
參首山。問。如何是佛法的的大意。山曰。楚王城畔。汝水東流。師於此有省。頓契佛意。乃作三玄偈曰。須用直須用。心意莫定動。三歲師子吼。十方沒狐種。我有真如性。如同幕裏隱。打破六門關。顯出毗盧印。真骨金剛體可誇。六塵一拂永無遮。廓落世界空為體。體上無為真到家。
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問。臨濟推倒黃檗。因甚維那喫棒。師曰。正狗不偷油。鷄銜燈盞走。
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上堂。舉法眼偈曰。見山不是山。見水何曾別。山河與大地。都是一輪月。大小法眼未出涅槃堂。三交即不然。見山河與大地。錐刀各自用。珍重。
CBETAを検索すると、これ以外は宗門の拈古にみられるのみだった。
臨濟録の行録にあるところが、この問答の引用。
師普請鋤地次,見黃蘗來,拄钁而立。黃蘗云:「這漢困那?」師云:「钁也未舉,困箇什麼?」黃蘗便打,師接住棒,一送送倒。黃蘗喚:「維那!維那!扶起我。」維那近前扶,云:「和尚爭容得這風顛漢無禮?」黃蘗纔起便打維那,師钁地,云:「諸方火葬,我這裏一時活埋。」
これに対して、潙山仰山問答が付く。
後溈山問仰山:「黃蘗打維那意作麼生?」仰山云:「正賊走却,邏蹤人喫棒。」(正賊走却して、邏蹤の人棒を喫す)
「正狗不偸油、雞燈盞走」はその言い替えだろう。
中国の禅籍での引用は三交智嵩のみだったが、日本では無學祖元、白隠慧鶴に見られる。
佛光國師語錄卷第三
上堂。二由一有。一亦莫守。十里牌五里堠。張婆店李公酒。水北雲南。驢前馬後。是汝諸
人。還護惜也無。良久云。正狗不偸油。雞銜燈盞走
初祖忌上堂。老和尙何所有。金陵一番打脱。少林尤更出醜。吾今要與遮掩。阿誰同共出手。卓拄杖云。正狗不偸油。雞衝燈盞走同拈香。金將火驗。人將財驗。法孫將此兜樓一炷。要驗這碧眼老胡。是有鼻孔。是無鼻孔。挿香。良久。顧視大衆云。山蒼蒼。水茫茫。人貧智短。馬痩毛長
槐安國語卷一
乃云。半夜逾城直上雪山 ○何處得者箇消息來。無謗如來好 既是道士擔漏巵 ○又是魯般繩墨 更説於明星現處忽然悟去 ○正狗不偸油。雞㘅燈盞走 大似揑目見空花 ○和尚眼花寒拾亦難掃除 大徳未嘗不解烏頭養雀兒 ○欲遂遷居之志。須求分燭之隣 卓拄杖云。南斗七北斗八㘞(〇のところが白隠の下語)
乃ち云く、「半夜に城を逾えて、直に雪山に上る ○何れの處よりか、者箇の消息を得來たる。如來を謗ずること無くんば好し 既に是れ道士、漏巵を擔う ○又た是れ魯般が繩墨 更に説く、明星現ずる處に於いて忽然として悟り去ると ○正狗、油を偸まず、雞、燈盞を㘅えて走る 大いに目を揑って空花を見るに似たり ○和尚の眼花、寒拾も亦た掃除し難し 大徳、未だ嘗て、烏頭、雀兒を養うことを解せずんばあらず ○遷居之志を遂げんと欲せば、須らく分燭之隣を求むべし」 拄杖を卓して云く、「南斗は七、北斗は八(㘞)」(道前『槐安國語』p.159【三五の二】)
横田南嶺老師が管長日記で、現代に通じる解釈を与える。事項の選び方はともかく、とても面白い。また日本人好みの句なのかもしれない。
円覚寺に伝わる手沢本には、この言葉は、「正賊走却して、邏蹤の人棒を喫す。」と同じだと註釈されています。
この問答はすでに悟りを開いた臨済禅師の境涯を表しているのです。
畑を耕して労働することが禅寺で行われたことをよく表している話でもあります。
百丈禅師の頃からと言われていますが、大地を耕すという農耕をするようになったのが禅の特徴でもあります。
もともと仏教では、土を耕すことは禁じられていました。土の中には虫などがいるからであります。托鉢していただくもので暮らしたのでした。
おそらく、中国で禅の修行をする者の集まりが増えていったのだと思いますが、とても托鉢ではまかないきれず、また中国にはインドのような習慣もないので、やむを得ず開墾するようになったのだと察します。
しかし、禅ではあらゆる営みは皆仏の行いであるという教えですから、この作務労働を、必要悪としてやるのではなく、積極的に意味を持たせるようになってゆきました。
この作務は、あらゆる営みが仏の行いだという禅の教えを具現化したものだとも言えます。そしてよくはたらくことは禅僧の美徳とされて、それが世間からも称賛されるようになりました。
高齢になっても作務に励んでいた百丈禅師のことを「一日作さざれば一日食らわず」と称えられているのです。
日本の禅では鈴木正三のようにはたらくことが禅の修行そのものだと、勤労を貴ぶ教えになっています。
それが今の日本の禅の特徴でもあります。
しかし、どんなことでも光と影があるものです。
問題点もあろうかと思います。
それはまずお釈迦様の教義を否定したことであります。
お釈迦様がやってはいけないというのを否定したのです。
もっとも臨済禅師は、仏に逢うては仏を殺しというくらいですので、仏をも超えている精神とも言えるのでしょうが、これはやはり問題であります。
それは殺生の容認ともなっています。
実際に百丈禅師は、心が虚空のように一切のとらわれが無ければ罪にならないと述べています。
それから自給自足の暮らしをするようになったので、自立できたという利点もありますが、教団の教えが世間よりもすぐれたものだという意識を増長してしまうことにつながっているようにも感じます。
自給自足の尊い暮らしをしているというのが傲りにつながることもあり得るのです。
畑を耕して暮らす、はたらく禅僧というのは、禅の美徳でありますが、後に様々な問題も残したのであります。