大乘起信論(17)

復た次に、若し人が唯だ止に於いてのみ修するは、則ち心は沈沒し、或は懈怠を起し、眾善を樂(なら)わずして、大悲を遠離す,是の故に、觀を修せ。

觀を修習する者、當に一切の世間の有為之法は,久しく停まるを得ること無くして、須臾(しゅす)に變壞し、一切の心行は念念に生滅し、是を以っての故に苦なりと觀ずべく、應に過去に念ぜし所の諸法は恍惚として夢の如しと觀ずべく、應に現在に念ずる所の諸法は猶お電光の如しと觀ずべく、應に未來に念ぜん所の諸法は猶お雲の忽爾(こつに)に於て而して起るが如しと觀ずべく、應に世間一切の有身は悉く皆な不淨にして,種種なる穢污あり、一として樂しむ可き無しと觀ずべし。

是の如くに當に念ずべし、「一切の眾生は、無始世從り來、皆な無明の所に熏習するに因るが故に心をして生滅せ令め、已に一切の身心の大苦を受け、現在に即ち無量の逼迫有り、未來に苦しむ所も亦た分齊無く、捨し難く離し難きに、而も覺知せざる眾生は是の如くに甚だ愍れむ可しと為す。」

此の思惟を作して、即ち應に勇猛にして大誓願を立つべし、「願くは我が心をして分別を離れたるが故に、十方に於いて遍ぜ令め、一切の諸善功德を修行して其の未來を盡くし、,無量の方便を以って一切の苦惱の眾生を救拔(ぐばつ)して、涅槃なる第一義の樂を得せ令めん。」

是の如き願いを起こすを以っての故に、一切時と一切處に於いて、有る所に眾善を、已の堪能に隨って、捨せずして修學し、心に懈怠すること無かれ。

唯だ坐時に止に於て專念するのみを除き、若し餘の一切ならば、悉く當に應作と不應作とを觀察すべし。

若しくは行にも若しくは住にも、若しくは臥にも若しくは起にも、皆な應に止觀俱行すべし。謂う所は諸法の自性は不生なりと念ずと雖も、而も復た即ち因緣の和合する善惡之業と、苦樂等の報とは失せず壞せずと念ずることなり。因緣と善惡業と報とを念ずると雖も、而も亦た即ち性は不可得なりと念ずることなり。若し止を修する者、凡夫の世間に住著することを對治し、能く二乘の怯弱之見を捨せん。若し觀を修す者、二乘の大悲を起さざる狹劣なる心の過を對治して、凡夫の善根を修せざるを遠離せん。此の義を以っての故に、是の止と觀の二門は共に相助成して、相捨離せざるなり。若し止と觀を具せざるなら、則ち能く菩提之道に入ること無し。

復た次に、眾生が初めて是の法を學して正信を欲求するに、其の心は怯弱にして、此の娑婆世界に於いて住するを以って、自ら常に諸佛に值うて、親承し供養すること能わざらんことを畏れ、懼れて信心は成就す可きこと難しと謂い、意の退せんと欲す者には、當に知るべし、如來に勝方便有りて信心を攝護す。意を專ぱらにして念佛する因緣を以って、願に隨って他方の佛土に生ずるを得て、常に佛に於いて見て永に惡道を離れるを謂う。修多羅が說く、若し人が專ら西方極樂世界の阿彌陀佛を念じて、修する所の善根を迴向し、彼の世界に生ぜんと願求(がんぐ)せば、即ち往生することを得る、との如く。常に佛を見るが故に終に退すること有ること無し。若しくは彼の佛の真如法身を觀じて常に勤めて修習すれば、畢竟して生ずるを得て正定に住するが故なり。

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