今日の管長日記20240922

「吾が心、秋月に似たり」、吾心似秋月である。

寒山有偈曰、
吾心似秋月、碧潭光皎潔。
無物堪比倫、教我如何說。

であって、寒山の偈である。
私は、たまたま昨日の夜にFacebookでこの偈についてつぶやいた。

いちおう、訓読も書いたが、再度ひけらかすようなものではない。
悟境を表現したものとして、ちょっと考えたのだった。
私は、環境、外界との関りが弱いのではないか、と思っていたのだ。どうも心の内側だけにフォーカスしているように読めてしまった。

寒山の偈は、CBETAの《宗門拈古彙集》卷4から取っており、そこには禅僧の著が付いている。

保福權別云、老僧則不然。吾心似燈籠、點火內外紅。有物堪比倫、來朝日出東。
靈谿昱云、大小寒山出門不認貨、好與三十拄杖。且道是賞是罰。檢點得出、許你親見寒山。

靈谿昱は「寒山の言っているところがわかるか?!」といった感じだ。

それで、今朝、管長日記で、その話題が出た。公案の答えは固定された、ひとつだけではないという。解答のひとつだろうが、正解だろう。
私としては、昨日の夜にちょっと考えて、今朝、解答例を見ることができたので、嬉しい。

さて、日記の構成、
1.老師の月見の習慣、馬祖語録から月見問答
2.筑摩書房『禅の語録13 寒山詩』
3.『中国詩人選集5 寒山』にある入矢義高先生の訳注
4.「比倫」の解釈について
5.筑摩書房『世界古典文学全集36B 禅家語録Ⅱ』にある西谷啓治先生の寒山詩
6.坂村真民先生の詩「月光洗浄」、老師「お月様を愛でる心を失いたくないものです」
1は序、(2,3)はやや難といった例を挙げて、4で問題点を指摘、5で解決。
6が結論。5に答えがあって、月(自然)に「比べ得るようなものは何もない」とあって、それを「お月様を愛でる心」と。このようなところがなかなか好きですね。また説明し難いとして、色々と言葉を使うことを拒否、拒絶するのではなく、根気よく論を作るあたり、興味深いものです。

1.の老師の月見と馬祖語録も分けた方が、構造はとらえやすいかもしれない。しかし、まあ、大筋は(2,3)、4、5、6の4段で、1の老師の月見を6の老師の言葉で落ちをつけるような流れだろう。

馬祖の問答は次。
《馬祖道一禪師廣錄(四家語錄卷一)》卷1:
西堂百丈南泉。侍祖翫月次。祖曰。正恁麼時如何。西堂云。正好供養。百丈云。正好脩行。南泉拂袖便去。祖云。經入藏。禪歸海。唯有普願。獨超物外(西堂藏。百丈海。南泉願)南泉。為眾僧行粥次。祖問。桶裡是甚麼。泉曰。這老漢合取口。作恁麼語話。祖便休。

西堂・百丈・南泉が馬祖に随侍して月見をしていたとき、馬祖が言った、
「まさにこういうときはどうだ」。
西堂、「供養にもってこいです」。
百丈、「修行にもってこいです」。
南泉はさっと袖を払って立ち去った。
馬祖は言った、
「経は智蔵のもの、禅は懐海のものだ。ただ普願だけは、独り物外に超然としておる」
(禅文化研究所『馬祖の語録』現代語訳)

2.
吾が心は秋の月の
碧潭に清くして皎潔たるに似たり
物として比倫するに堪うる無し
我れをして如何が説(い)わ教(し)めん
「私の心は秋の月がエメラルド色の深淵に照り映えて、清らかにもけざやかに輝くにさも似ている。
この心に比較することのできる何物も存在しないのだから、私に心のありさまを説明させることが誰にできようか。」

3.
吾が心は秋の月に似たり
碧潭 清くして皎潔
物の比倫するに堪うる無し
我れをして如何が説かしめん
「わが心は秋の月が、澄みきった碧潭に皎皎と冴えているのに似ている。
この心を比べるに足るものはほかにない。いったいどう説明したらよかろうか。」

4.
「白や詩に敵なし、飄然 思いは群ならず、清新なるは庾開府、俊逸なるは鮑参軍」
  (杜甫の「春日 李白を憶う」、黒川洋一氏「杜甫」上巻、二七ページ参照)
「敵なしなら、庾と鮑に似るはずもなかろう」に対し、「そうじゃない。庾は清新だが俊逸ではなかったし、鮑は俊逸だが清新ではなかった。李白はその二つを兼ねたのだ。だから敵なしというわけだ」

「秋月碧潭に似るといいながら、比ぶるに堪うる物なしとは、こりゃどうしたわけじゃ」この詩の意味は、もし比倫すべきこの二つがなかったら、さて如何が説くべけんというのである。
こういったところは、第三句は「……に堪うる無くんば」と読む。しかしそう読んでは、理に堕ちてかえっておもしろくない。

5.
吾が心 秋月に似たり
碧潭 清(せい) 皎潔
物の比倫に堪えたる無し
我をして如何か説かしめん

秋天の明月が皎々と照り渡り、それがまた澄みきった碧潭に照り映えて、すべてが八面玲瓏、言いようもなく清らかで皎潔であるという、それにも似たのが自分の心である。そういうメタフォルで辛うじて示唆しても、その清潔な心そのものは自分でも何とも説きようがない。
~物の世界と心と全く別々に二つあるというわけではない。秋月のような心に応えて物の世界が碧潭のような相を現わしたということである。八面玲瓏である。

二句目は老師指摘の通り。
三句目も「物として比倫するに」→「物の比倫するに」→「物の比倫に」で、意味わ変わる。

こういったところが、おもしろいのです。

管長日記を聴いていて、ときどき思うのだが、手元に多くの禅籍、その解説書や法話集、また東洋の古典思想から詩集まで、よくそろっていると思う。おそらく500冊くらいは手元にあるのではなかろうか。知識の量を考えると、読んでそのまま捨ててしまってた本も多いだろう。
一度、見てみたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?