大乘起信論(15)

云何が進門を修行せんや?謂う所は諸の善事に於て心は懈退せず、志を立つここと堅強にして怯弱を遠離せよ。當に過去久遠より已來、虛しく一切の身心の大苦を受け、利益有ること無きを念ずべし,是の故に、應に勤めて諸の功德を修して、自利利他し、速かに眾苦を離るべし。

復た次に、若し人信心を修行すと雖も、先世從り來(このかた)、多く重罪惡業の障有るを以っての故に、魔と邪の諸の鬼之所の為に惱亂し、或は世間の事務の為に種種に牽纏(けんてん)し、或は病苦の所の為に惱み、是の如き等の眾多の障礙有らんと、是の故に應當(まさ)に勇猛に精勤して、晝夜六時に諸佛を禮拜し、誠心に懺悔し、勸請し隨喜して、菩提に迴向すべし。常に休廢(きゅうはい)せずんば、諸障を免るることを得て、善根を增長するが故なり。

云何が止觀門を修行せんや?言う所の止者、一切の境界の相を止むるを謂い、奢摩他觀(しゃまたかん)に隨順する義なるが故なり。言う所の觀者、因緣生滅の相を分別するを謂い、毘鉢舍那觀(びばしゃなかん)に隨順する義なるが故なり。云何が隨順するや?此の二つの義は、漸漸に修習し、相捨離(あいしゃり)せずして、雙に現前するを以っての故なり。

若し止を修せんという者、靜處に於て住し、端坐して意を正し、氣息にも依らず、形色にも依らず、空に於いても依らず、地水火風に依らず、乃至、見聞覺知にも依らず、一切の諸想隨念を皆な除き、亦た除想をも遣る,一切の法は本來無相を以って、念念に生せず、念念に滅せざればなり。亦た心外に隨って境界を念じて後に、心を以って心を除くことも得ざれ。心にして若し馳散(ちさん)せば、即ち當に攝め來たりて正念に於て住むべし。是の正念者、當に知るべし、唯心のみにして外の境界無きをいう。即ち復た此の心も亦た自相も無くして、念念に不可得ならば、若し坐從り起って、去來進止に施作する所有るも、一切時に於て常に方便を念じ隨順して觀察せよ。久しく習して淳熟すれば、其の心は住することを得ん。心が住するを以っての故に漸漸に猛利(みょうり)にして、隨順して真如三昧に入るを得て、深く煩惱を伏して信心は增長し、速かに不退を成ぜん。唯だ疑惑、不信、誹謗、重罪、業障、我慢、懈怠のみを除く。是の如き等の人は入るに能はざる所なり。

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