今日の管長日記20240925
「全生庵で法話」ということで、新作法話かと喜んだが、小池陽人さんのスピーチの3要素なるものを参考にして、前日の日記記載の死について話したということ。
1.東京谷中の全生庵での彼岸会法要での法話、十年目、帯津先生とも縁が深い
2.法話の準備について、小池陽人スピーチの三要素
そこで、諏訪中央病院のほろ酔い勉強会「幸せな最期を迎えるために」の内容を話すと決める。
3.法話
在宅看取り、置くいじめ、「生死観」をもつ、小さなことでも幸せを感じる、感謝、捨て去ること
4.まとめ
法話のまとめ:「そこでまとめますと、幸せな最期のために在宅看取りやお食いじめなど、あれこれと方策を考えること、しかし、人生はどうなるか分からないので、幸せの感度を高めて、死生観を持って生きること、ありがとうという感謝の気持ちをもつこと、そして出すこと施すことを心がけて生きることなのです。」
振り返って:「こう考えてみますと、幸せな最期を迎えるためにと考えていると、幸せに生きることに通じるのです。幸せと感じるこころを養い、感謝の心をもって、施すことに心がける、これは人生を幸せに生きる秘訣だと思ったのでした。」
この日記の感想としては、4.まとめは有難くおもう。特に、振り返りでアイデアが出ることもある。
スピーチの三要素については、それはそれで役に立つ。しかし老師がそれを続けると、今までの老師らしい、しっかりした構成の、引用にもぬかりの無い、講義のような法話の良さがなくなってしまうのではなかろうか。そっちの方向ではないと思う。
ついでに言っておくなら、修行僧さんたちに上堂や示衆のような、問答録を出してほしいと思う。まあ、こういうのは先の話かもしれない。
最後に、拍手について触れていた。拍手はやったほうがいい。これが今風と思う。
聞き始めた頃、なにもなく終わるので、不気味だった。
勿論、説教という側面もあるので、難しいのかもしれない。浄土真宗ではみんなで「ナマンダブッ、ナマンダブッ」といっている。
講演のようなものか、講義のようなものか、といったことかもしれない。内容によっては講義でも拍手しても良いように思う。花園大学で受け持っている、年6回の話は授業とはいえ講演に近い。なお通常の授業で拍手は必要は無い。
■項目3.について
昨日の話では、老師は高名な僧侶の言葉を引用していたが、今日の日記については、平易な内容を挙げていた。
まずは小さなことでも幸せだと感じる心を養っておくことです。
そして死は亡くなることではなく、大いなる命の世界に帰ることだという安心感を持っていることです。
安積得也さんが、
手いっぱい
眼前のことで手いっぱいのときも
花を忘れまい
大空を忘れまい
おおいなるものましますことを
忘れまい(安積得也『一人のために』)
と詠っておられます。
また、捨て去ることに因んで、お経を引用した。
『菩提和讃』というお経には、
田畑数多(あまた)有とても 冥土の用には成ぬもの
金銀財宝持つ人も 携え行ゆべき道ならず
妻子眷族ありしとて 伴い行く事更になし
という言葉があります。
どんなに田畑や財産を持っていても、それは死に際してもってゆくことはできません。
妻子や家族も付き添ってはくれないのです。
すべてを出して、捨てて、おいてゆくのです。
だから普段から差し上げる、施すことになれておくことが大事だと桜井先生は仰っていました。
お医者さんの桜井先生がお経を採り上げるとも思えないので、老師が今回の法話のために、追加したのだろう。
■帯津先生(帯津良一、1936-)は、帯津三敬病院の院長で、日本ホリスティック医学協会名誉会長、日本ホメオパシー医学会理事長。管長日記によく登場する。
人に伝わりやすいスピーチの3要素
1.自分自身の話をする
2.最近の出来事の話をする
3.物語(ストーリー)性を持たせた話をする
須磨寺小池陽人の随想録「【法話】幸せの見つけ方」(2024/9/18, 5;30-)より。
ただし、この方法もアナウンサーから聞いたものとのことだった。法話に限らず、普遍的なところもあるのだろう。
こちらの法話も、学校に招かれて法話をしてきた話であり、興味深いところがあった。
なお、小池さんの法話は、出来事をつなげて、ストーリーとし、仏教的な教えを示す、といったスタイル。出来事の面白さ、意外性や、特にストーリーとしての関連付けがとても上手いと思っている。ストーリーというものは、基本的に後付けの解釈なのだから、そのような記憶の組み立てに技が有るのだと思っている。
毎週水曜日のだいたい朝8:00くらいに投稿していたように思う。