今日の管長日記20240920

寶林寺東輝庵の展覧会についての話。
横浜市歴史博物館で九月十四日から十一月十日なのだが、開催初日のイベントに講演会あったようだ。ホームページに次のようにあった。
関連イベント
① 特別講演会「鎌倉の禅」 ※事前申込(応募者多数の場合は抽選)
  9/14(土)14:00~15:30
   講師:臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺 老師
   会場:横浜市歴史博物館 講堂
   参加費:1,000円
横浜歴史博物館、聞いたことがありそうだが、知らないところだった。横浜市営地下鉄線ブルーライン・グリーンライン「センター北」駅より徒歩5分のところにある。

寶林寺は横浜の保土ヶ谷にある円覚寺派のお寺。15世紀に開創された。東輝庵は江戸時代、18世紀中ごろに修行道場として月船禅慧が開設した。
月船禅慧(1701~1781)は、奥州田村郡小野村(福島県)の生まれである。管長日記に記載のある通り、多くの著名な禅僧を輩出している。結構身近なところにあったものだと驚いた。

日記の構成、
1.寶林寺東輝庵展の開催、概要について
2.老師講演のこと、栄西禅師からの歴史
3.江戸時代の鎌倉の禅の経緯
4.月船禅慧の東輝庵での活動
5.誠拙禅師の活動
6.東輝庵活動以降の月船禅慧、明治時代のこと
7.横浜市歴史博物館の吉井大門さんのことば、展示会関係者への感謝、推薦の言葉

展覧会の紹介の文章である。
2~6が、講演の内容なのだろう。円覚寺の歴史を説明すると、日本の禅を俯瞰することになるので、とてもありがたい。

江戸時代の円覚寺から、(『円覚寺史』)
「口碑によると、圓覺寺山内の諸僧が、どてらを着て、博奕にふけつてゐたといふが、まさかそれがそのまま事實とは思へないが、」
「矢張り、相當の風俗綱紀の紊亂はあつたものと見える」
「一旦大切な舍利を正續院内の昭堂舎利殿の中の龕に安置するとなると、これを供養守護する人が必要になって来るが、山内は無人であったらしく、その係りを捻出出来ないとみえ、正續院自身も殆ど無人に等しかつたらしい。
そこで東山周一は一山の役者を集めて衆議し、月船和尚のところにお願して、舎利供養守護のための衆の斡旋をお頼みすることにした。」
といったことで、鎌倉の近くとしては、名前が知られていたのだろう。

月船禅慧の活動のスタイルも興味深い。
韜光晦迹といって、修行したという跡を隠して、村人の中にとけ込んで、子供たちに文字や文学を教え、村の人たちを知らず知らずのうちに仏法に帰依させていったという、禅門の理想の教化をなさいました。
今のように情報の発達した時代ではありませんが、その徳風が伝わって、全国からあちこちの雲水が集まって、庵の中には入り切らなくて、村の小屋や牛小屋に住んで月船禅師に参禅したようです。

また、
当時の月船禅師の元には、後に相馬の長松寺に住する物先海旭禅師や、後に博多の聖福寺に住して有名になる仙厓義梵禅師などのほかに、後に白隠禅師のもとの参じた峨山慈棹禅師や隠山惟琰禅師など錚錚たる禅傑が修行されていました。
とあって、実は白隠の法系に係わっているのも特筆すべきだろう。
白隠-峨山-{隠山、卓州}であり、隠山派と卓州派として法系をなし、禪の特徴となった。
まとめは次である。
(横浜市歴史博物館の吉井大門さん解説)「白隠会下の鵠林派が駿河の有力な檀家や在家居士、その外円の杖払衆、観音講などによって物心ともに支援され林下の教団として成り立ったように、名主服部家を中心とした永田村と「宝林寺 東輝庵」の禅僧にとって、文化的機能を成立させるための「寳林寺 東輝庵」、一方では集団修行を成立させる修行道場としての「寳林寺 東輝庵」を維持するという双方向的利得の一致を持った表裏一体をなす関係性の一端が垣間見えよう。」
(老師)「今回の展示では、永田村の名主服部家との関わりや、保土ケ谷宿の軽部家とのご縁について学ぶことができました。」
保土ヶ谷の名主、戸長、つまり市長・区長といったところと、保土ヶ谷の保土ヶ谷の商家で、横浜の西側近傍の地域に大きな影響を与えたということだろう。

江戸時代の禅に、横浜が存在していて、これはなかなかうれしいものだ。

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