小池陽人法話「幸せの見つけ方」(20240918)の文字起こし
須磨寺小池陽人の随想録2024/09/18「幸せの見つけ方」の文字起こしをしてみた。
話はよくわかるし、感情的にも聞きやすい。話しの筋もわかる。ただ、思い返してみて、中味の詳細、というか、個々の文の印象が無い感じがした。
動画の時間は16:17であり、文字数は凡そ6300文字程度だった。動画の禅語にはクレジット表示やあいさつが入る。法話は大体2000字で10分くらいかかると思う。法話の正味で6000文字は30分かかることになるが、これを法話の部分で15分でこなしている。
かなり早口ということになるが、実のところおしゃべりしているような感じで話すのである。
文字起こしというのは、しんどい作業だった。またかなり砕けた喋り言葉であって、文字起こしをしても、区切りをつけにくい。法話の前に、内容を考えているはずで、それも何らかの文字にしているとは思うが、原稿、もしくはその程度の詳細さをもったものは無いだろう。
文字起こしをしても、その文章からだと、あらすじを確認するのもめんどくさいところもある。聞きながらメモをとったほうが楽なところがあるが、聞き逃す場合も多く難しいものだ。
動画を止めながら、見ていたわけだが、表情の変化やジェスチャーもある喋り方をしていることもわかる。また喋っている感じにしては、筋が通っているのであって、慣れているか、訓練しているのだろう。筋が通っている感じはするので、その筋を取り出してみたいと思った。
【法話】幸せの見つけ方 (16:17)
須磨寺小池陽人の随想録2024/09/18
紹介欄の記載:
先日、奈良にあるキリスト教の高校3年生に向けて、法話と講義をさせて頂きました。その中で、高校生の皆さんにも「最近あった嬉しい出来事」をテーマに、1分間のスピーチをして頂く時間があり、そこで、とても心あたたまるお話しをしてくれた学生がいました。
日常の些細な出来事の中に、多くの幸せや豊かさがある。それを気づくも気づかないも、自分自身なんだ。そんな事を、改めて高校3年生の皆さんから教わった気がします。
文字起こし:
(冒頭、ダイジェスト部分)(0:00)
感動したんですね。私、ま、ずっと思ってているんですけど、幸せって誰かから与えられるものでもないし、えー、そしてなんだろう、何か、こう、手に入れるものでもないような気がしていて、どういうものかというと、幸せってね、気づくものなんだと思うんです。(0:20)
(オープニング、音楽、タイトル表示)(0:30)
(合掌、お辞儀、画面に紹介)
みなさん、おはようございます。 (会場返答)おはようございます。(0:37)
ありがとうございます。えー、御視聴頂いている皆様もおはようございます。いつも御視聴頂きありがとうございます。
須磨寺の小池陽人でございます。(0:47)
さあ、今日はですね、収録日は7月14日でございまして、皆さん、あの、命がけでここまでたどり着かれて、こんだけ暑い中ね、ま、ちょっと雨も降ってましたんで日差しは少しましだったかと思うんですが、足元の悪い中、本当にようこそお越しくださいました。ありがとうございます。
えー、もう毎回恒例になってきていますけれども、このYoutube法話を公開収録という形でね、お届けしておりまして、え、皆さんと楽しく今日もお時間過ごせたらと思いますんで、よろしくお願いしたいと思います。
はい、で、まずね、今日はどんなお話からしようかなと思っていたんですが、これ、ま、以前もね、お話したことがあるんですけれども、えー、今年の、まあ年明け早々の話になるんですけれども、だいぶ前ですね、あのー、昨年ですね、あのー、奈良育英高校という高校の、高校3年の担任の先生が、え、私に会いに来てくださいまして、えー、お聞きしましたら、このYoutubeのですね、視聴者さんなんですね。で、毎回楽しみに見てきました―言うてね、あの私を訪ねてきてくださって。でその時は、あのー、他のご友人と何人かで男性、皆男性なんですけども、来てくださって、でその高校3年生の先生が、えー、陽人さんの話をね、その高校生にも是非して欲しいんだと、そういう熱い思いを受けまして、で、あの「もしお願いしたら来てくださいますか」て言われまして、「あ勿論行きますよ」言うてね、あのー、お答えしたんです。そしたらそれで帰られて、その後、本当に学年主任の先生であったりとか、それから校長先生であったりとか、掛け合ってくださいまして、えー、なんと私の講演をセッティングして下さったんですね。
で、その先生曰く、その全校生徒の前での、あの、講演を企画したかったんだけれども、ま、いきなりはちょっと難しかったので、今回は高校3年生の選択の授業ってあるんですね、で、あの、いろんな外部講師の方がその日は来ていて、え、みな選択して、え、どの先生か選んで、え、授業を受けるというものなんです。その1つの一コマとして、ま、私をお招きいただくっていうことをセッティングしてくれまして、で、高校3年生の、もう三学期ですよね、もう卒業間近というか、ま、受験真っただ中というような時期だったと思うんですけど、ま、そんな時にお坊さんの話、聞いてくれるのかということを、あの、不安に思いつつも、あの、行ったんですね。
で、えー、もう校門のところで、その先生が待ち受けて下さってまして、でまずは校長室といってね、校長先生をご紹介します、ということで、校長室に通して頂いたんです。(3:27)
「あ、今日、はじめまして小池と申します」言ってね、「あの、貴重な機会ありがとうございます」言ってお話している時分かったんですけれども、奈良育英高校はキリスト教の高校だったんですね。もうちょっと早く言って欲しかったなと。(笑い)もう(自分を指して)ここまでではないですけども、あのいつものね、その黒い衣で行ってましたので、校長先生もね、ま、「キリストなんだけどね」って言われて、「えっ」て言って、「先生大丈夫なんですか」ていったら、「いやいやあの生徒全員がクリスチャンというわけではないから大丈夫大丈夫」って言って、もうすごい寛大に迎えて下さいました。(4:01)
「じゃ、そろそろお時間ですよ」言うて、教室で私は、もうイメージとして、もうあの一般的な教室をイメージしているわけですよ。で、私が坊さんだからなのか、気にしてたのか分からないんですけど、通されたのがまさかの和室だったんですね。(4:15)
あの、お茶室だと思うんですけど、まあ育英高校ね、私立で、あの、そういう、お茶も学ぶ部活があるのか、わからないんですが、そう、お茶室に、もう所狭しと生徒さん40人ぐらいかな、あのー、座って待っていてくださってて。だから椅子とか無いんですよ。黒板も無いし。で正座でね、こう、ビシッと待ってくれてて。で私通していただいて。先生から言われたのはなんと「あの、陽人さん、今日3時間お願いします」云われて。聞いたことないですよ、3時間って。(4:49)
で、いくら長くてもね、ま、2時間くらいかな、今まで、講演時間。で、これ、あの、話す方はまあいいんですよ、私いくらでも話せるんですけど。聞く方がしんどいですよね、3時間。で、どうしたもんかなと思ったんですけど、まままあ、あの、「じゃ、もうそろそろ大学になる方々ですから、なので1時間半、90分の授業はね、これから受けるだろうから、90分、じゃあ、お話します」、ということで、その90分終わって、中休みというか、休憩を取って、後半は皆さん一人ずつスピーチしてもらおうと思ったんですよね。で、まあ、これからの人生、人前でお話しする場面って、少なからずあると思うので、その練習しましょう、ということ言って。(5:37)
で、私、あの、スピーチの先生から、先生というかアナウンサーの方ですね、以前教わったことがありまして、皆さんも人前で、あの、スピーチする時、参考にされて下さい。人に伝わりやすいスピーチの、あの、3要素ってあるんですね。(5:49)
で、一つ目が、えー、自分の話です。なんか、人から聞いた話っていうのは、なかなかつたわりにくいんですね。まず自分の話であるということ。2つ目は、最近の話なんです。これもなんか不思議なんですけど、いや、あの、5年前にっていった瞬間に、ささーっとひいちゃうらしいんですね。ところが、スピーチのときに、いや今日ねここ来る道中でって話した瞬間に、よくわかんないですけど、ぐっと、こう興味がわいてくる。これはまあ、なんかそういう風に脳が構造されているかわかんないです。そういうことらしいです。で、3つ目は物語になってるってことがいいらしいですねっ。なにか物語が始まると人は途中でやめられないんです。最後までその物語、どうなるのかなって聞きたくなるので、自分の話であって、最近の話で、なるべくなら、こう、ストーリー性がある、ということですね。(6:43)
ま、この3つがいいって聞いてたんで。じゃあ、あの「テーマを決めましょう」、といって生徒さんたちに、「じゃあ休み時間に考えといてね」。で、あまり長い話は難しいと思うので、「1分スピーチにしましょう」、と言って、え、テーマは最近あったね、これ、「最近あった自分にとってうれしかったこと、何でもいいですよ」、ということで、それでスピーチしてみましょうっていうことで、ま、休み時間とりまして、で、その休み時間中に先生が「いや、陽人さん、内の生徒はもうシャイな子多いんで、あの、全然喋れないんちゃうかな」っていう風に心配してたんですね。(7:20)
で、休み時間終わって、ま、集合して、で、一人ずつ話していくんですけど、全然大丈夫だったんですね、その先生の心配は。もう、みなあれは、それは勿論緊張、なかには緊張する子もいましたけども、それでも自分のことばでしっかりと、あの、言葉を伝えていて、で、なんかうれしかったのは、その、嬉しかったことがね、なんか、こう、すごく大きなことではなくて、日常の些細なことにみな喜びを感じているってことが、その話を聴いて、すごく感じて、、、感じたことなんですね。で、私が一番印象に残っているのは、ある女の子なんですけど、その女の子の生徒さんで、えー、姉妹なんですって。で、妹がいる。自分はお姉さんなんですね。で、この間ショッピングモールに、えー、お父さんと妹と3人で出かけたと。で、買い物している時に、買い物に行った先で、お姉さんである、その、その子がね、財布を忘れてきたことに気が付いたんだそうです。「ああ、財布忘れてきちゃった」。でも、こう、妹と、ま、お父さんとちょっと分かれて妹と二人で歩いてる時に、なんか少し欲しいものがあったそうなんですね。で、妹さんに相談したと、「あの、お金ちょっと貸してくれない」って言って。そしたらその妹さんが、おもむろにお財布を出して、で、中にね、一万円札1枚と千円札一枚入っていたというんですね。(8:46)
で、その欲しかったものが、千円以上のものだった。で、それで妹さん言ったのが、お金貸したくない、と。でなんでって、こう、聞いたら、あの、一万円を崩したくない、と言うんですね。いやいや、あの、ちゃんと後で返すよと説明しても、一万円崩したくない。で、あの、え、どうしてって、ま、それもまた聞くわけです。その妹さん言うには、一万円というのは崩したらすぐなくなってしまう、ということを言いって、なるべくなら崩したくないって言ってて。で、その話を聞いて、ま、面白いなと思ったんですけど、私落語が好きで、あの、古今亭志ん朝さんてね、もう亡くなってしまって、志ん朝さん、あの枕でね、似たような話があるんですよ。(9:34)
なんか新しい、あ、今回ね、お札、新しいお札見ました。ね、私も拝見しましたけども。ま、その時もおそらく新しい一万円札が出たころだったのかな。で、その一万円札について語っているんですよ、志ん朝さん。一万円ていうのは本当にだらしないとね。崩したらすぐなくなってしまうと。私ね、崩す、崩さない方法見つけたんですって言ってて。で、どうするんですかて言って。あの、借りるんですって言って。で、人に借りて、借りた人になるべく合わないようにすると。そうすると一万円札は崩さないっていうね、話をしてて。その、あの、その子が妹さん話したの、凄くつながるナなと思って、自分でもう笑ってたんです。聞いてたんですけど。で、ま、でもそこからけんかになってしまったんですって。で、姉妹げんかになって、「もういいわ」言うて「お父さんとこ戻るっ」て言って、その子はお父さんのもとに戻りまして、それで、でも、しばらくしてたら妹さんがまた合流してね、来てくれた。そしたらその手になんか持ってきた。それがなんかポーチだった。可愛らしいポーチだったって言うんですね。で、これま、「さきはごめんね」って言って、あの、渡してくれたんですよ、それを、お姉さんである子に。それで、え、「なにこれどうしたの」って言ったら、「これお姉ちゃんに似合うと思ったからプレゼント」って渡してくれた。で、よくよく聞いたらそのポーチは千円以上するポーチだったって言うんですね。で、その子が言ってたんです。あれだけ嫌がってた、あの1枚を崩すことを嫌がってたのに、崩してまで私のためにポーチを買ってきてくれた。ま、それが最近あった自分の一番うれしいことでですっていう風に、あの、語っていて。なんかその話を聞いて、なんかジーンとしてましてね、私。なんかいいな、いい話やなって思って聞いてたんです。で、まあ、その子だけじゃなくて、いろんな子が、あのー、日常の本当に1つ1つの些細な幸せのことを、こう、キャッチする力がちゃんとあるんだなって言うことに感動したんですね。で、私、ま、ずっと思ってるんですけど、幸せって何か誰かから与えられるものでもないし、えー、そして、なんだろう、何かこう手に入れるものでもないような気がしていて。どういうものかと言うと、幸せってね、気づくものなんだと思うんです。(11:58)
実は我々は生きていて、日常、その足元に幸せが転がっているはずなんですね。で、それを見逃してしまうから、不平不満が出てきたり、ああ、なんかいいことないな、なんていう風に愚痴っぽくなってしまう。そうじゃなくて、1つ1つの出会いであったり、1つ1つのことに感謝する心があれば、我々は幸せになれるんだと思うんですね。だから皆さん、私もそうですけど、幸せは与えられるものでもないし、掴むものでもないし、気づくものなんだっていうことをね、改めて、私、この高校の、あの、、生徒さん、教えてもらったなって思ってます。でー、先日、あの公開した動画なんですけれど、高橋卓志さんという、私は尊敬する臨済宗のお坊さんと対談をした時、高橋さんが、ま、ステージ4の願なんですね。で、その高橋さんが仰ってた。今までなんでもない、く生活してたのがずっと不調なんですって。でもそんな不調なときに気が付いたことは、半日だけでも気分、不調がなくね、気分よく過ごせるだけで、「ああ、今日一日幸せだったって思える。それがやっと気付けたんだ」ってことをおっしゃっていて、まさにそう、我々は健康でいるときこそ健康のありがたさが分からなくて、病気になって初めて、「あ、健康だ」、健康のありがたさが身に染みてわかる。本当にそうだなと思うんですけど、できるならば健康の内に、この健康の有難さに気付ける方がいいですよね。だから、やっぱり、いつも言っているんですけど、一切皆苦、一切皆苦ってね、人生は思い通りにならない。それを基準にして生きていくことによって、思い通りになる1つ1つの事に感謝できるようになる。ま、これが本当に仏道なんだろうなっていう風に、え、思いました。(13:50)
で、最後にですね、これは、あの横田南嶺猊下から教わったんですが、えー、安積得也さんという方ね、あの詩人の方の詩を最後にご紹介したいと思います。え、詩のタイトル、題名はですね、「幸せ者、僕」というタイトルです。えー、読ましていただきます。(14:12)
(画面に詩を表示)
幸せ者、僕
この眼があいて
自然が見える
しあわせものと
僕を思う
この耳が澄んで
小鳥がきこえる
しあわせものと
僕を思う
この傷がなおって
このくわがにぎれる
しあわせものと
僕を思う
(14:45)
という詩なんですね。短い詩ですけど、幸せ、自分が、「あ、しあわせだな」って思う癖がついてくると、なんでもないことに本当に感謝できる。えー、有難いの反対語は当たり前だっていうね、お話を聞いたことがありますけども、当たり前になっている1つ1つのことが実はあり難いことだっていう気づきが、幸せへの一番の、あのー、近道というか、なんではないかなと思っております。はい、ということで、今日はですね、今日はですね、足もとの幸せに気付く大切さをお伝えさせていただきました。えー、今日もご視聴いただきまして、ありがとうございました。(お辞儀)(15:22)
それでは最後にですね、えー、お大師様の御法號をお唱えして終わりたいと思います。(15:28)
(画面:南無大師 遍照金剛)
なむだいしー へんしょうこんごう
なむだいしー へんしょうこんごう
なむだいしー へんしょうこんごう
(15:48)
今日もご視聴頂きまして、ありがとうございました。(お辞儀)(会場拍手)
(エンディング、音楽、クレジット表示)
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