夢窓国師の遺偈にある「横該竪抹」
転身一路(てんしんいちろ)
横該竪抹(おうがいじゅまつ)
畢竟如何(ひっきょういかん)
彭八刺札(ほんぱらっさ)
花園大学公開講座 「禅とこころ」 花園大学 総長 横田 南嶺 2019年10月8日(火)の講演の最終盤において、この遺偈が取り上げられていた。
横該竪抹(おうがいじゅまつ)について、南嶺老師は「いままでの自分のことを、すべて、縦と横に×を書いて、全ての意味を抹消する」、という解釈に聞こえるが、違和感があった。さきごろ天竜寺の今の管長が「縦横無尽に自在にはたらいていくこと」といって、私はその解釈と思います、といっていた。
割と最近の管長日記「夢窓国師の最期」2024.08.23でも、このことに多く述べられる。
『日本の禅語録七 夢窓』に柳田聖山先生は、
「転身の一路とは、六道の一角に、今仮りに宿をとることであり、さらにそこを起つことだ。そして、第二句に「横に該して竪に抹す」というのは、一筆でサッとそれをなで消すことである。
横に竪にとは、思いのままの意である。
かれは、転身の一路を消してしまう。
さいごの「彭八刺札」は、鼓などのかけ声である。
「ヤァーサ」という謡の合の手である。
「八札」とも書かれて、やはり宋の五祖法演にその先例があり、後の禅者もまたこの句を好んで使う。
仏鑑にも仏光にもある。
三世の諸仏と手をとりあって、夢窓は鼓の声とともに姿を消す。
漸く見せた本身であった。人々は、かれの脚下を見たであろうか。」
と説かれています。
また『NHKこころをよむ 大燈を語る 夢窓を語る』には、
「私は今、向きを変えて、一歩をすすめる、そこにはおよそ、路というものが、完全に塗りつぶされた大地。
さて、どう踏み出すのか、
ヤアーホー。
第一句、転身の一路とは、新しい旅立ちの決意、かつて歌った放蕩息子の、東西白く踏む一条の路を、がらりと転回させる気合いです。
第二句は、タテとヨコに、大きいバッを書いて、いっさいの方向づけを拒否するところ、今までのはもちろん、これからの足あとを、完全に消し去るのです。
さてそれでは、と第三句。前も後も、左右も消えました。
そして第四句の彭八刺札。
これは、一歩踏み出す誘いの声です。
漢字ではいろいろ標記があるのですが、勢いよく鼓をうって、気合いをかける、おはやしの音、ヨーイヤーサーです。
夢窓は、そんな呼び出しの声と共に、しずかに姿を消すのです。
みごとな別れ。大いなる、入涅槃でした。」
なお『NHKこころをよむ 大燈を語る 夢窓を語る』は平野宗浄、柳田聖山著(1992、日本放送出版協会)である。
平野 宗浄(ひらの そうじょう、1928年〈昭和3年〉7月2日 - 2002年〈平成14年〉7月6日)は、臨済宗の僧、仏教学・仏教文学研究者。大阪府堺市少林寺町生まれ。17歳で京都真珠庵山田宗憲について得度。花園大学仏教学部卒。1955年(昭和30年)4月、神戸祥福僧堂に掛搭、山田無文老師に参じる。その後、松島瑞巌僧堂にて修行、加藤隆芳老師に嗣法。大津市祥瑞寺住職、禅文化研究所研究員・花園大学文学部教授、1999年同名誉教授。1988年瑞巌僧堂師家に就任。2000年禅文化研究所所長。一休、大燈国師について研究した。
柳田 聖山(やなぎだ せいざん、旧姓:横井(よこい)、1922年12月19日 - 2006年11月8日)は、日本の中国禅宗史研究者。多くの著作がある。花園大学、京都大学人文科学研究所、勲三等瑞宝章、日本印度学仏教学会、勲三等瑞宝章。
上2冊についての解釈は柳田聖山によると考えられる。
・第二句に「横に該して竪に抹す」というのは、一筆でサッとそれをなで消すことである。
・第二句は、タテとヨコに、大きいバッを書いて、いっさいの方向づけを拒否するところ、今までのはもちろん、これからの足あとを、完全に消し去るのです。
管長日記でもやはり不満が述べられる。
「該」は「つつむ、ふくめる。充分にゆきわたる、通じる」という意味です。
「抹」は「なすりつける。さっと過ぎる。」という意味があります。
また「抹」には「ぬりつぶす、ぬりけす」という意味があります。
実は私、柳田先生のこの解釈については長年疑問に思っていました。
どうも違和感を覚えていました。
しかし、偉大なる禅学者の解釈ですから、そういうものかなと思ってきていました。
そして、別の説を採り上げる。
最近、この「橫該竪抹」について親しい仏教学の先生にうかがってみました。
その先生は、「該」と「抹」という二つの動詞は基本的に同義語とみなされていました。
「橫~竪~」というのは自由になになにできるという意味です。
そしてこれは「竪に三際を窮め、橫に十方に亘る」というのと同じだろうという見解でいらっしゃいました。
「究極的な真理が全宇宙に満遍なく行きわたり、しかもそのはたらきが何の妨げもなく自由自在であることを表すもの」というのです。
老師はこれも違うという。なお、これはちょっともったいない気もするが、これは文法的、成句、語用的にそうなら、主張しやすいのだろう。
最後に、ご自分の解釈をいう。
これは、柳田先生の解釈とは反対であります。
しかし、これにも私は少々違和感を感じるのであります。
「該」は「つつむ、ふくめる。充分にゆきわたる」という意味であり、「抹」は「ぬりけす、拭い去る、抹消する」という意味です。
すべてを覆い尽くすことと、消し去ることの二つだと思います。
「全世界を覆い尽くすように自由に身を現すこともできれば、自由に消し去ることもできる」という意味ではないかというのが、私の見解であります。
ほぼ5年前に「縦横無尽に自在にはたらいていくこと」と合意したことは、より明確には「全世界を覆い尽くすように自由に身を現すこともできれば、自由に消し去ることもできる」ということだろう。
『日本の禅語録七 夢窓』は1977年出版であるから、50年経つ。些細なところかもしれないが、夢窓国師の活躍を重きとみる円覚寺では「今までのはもちろん、これからの足あとを、完全に消し去るのです」とされては困るのだろう。「全世界を覆い尽くすように自由に身を現すこともできれば、自由に消し去ることもできる」ならば、京都と鎌倉など、身を消しては別のところに現れる、ということを数年毎にやっていた活躍そのものとなるのだろう。