管長日記20240915の振り返り
管長日記とは、コロナ禍で始まったので、布教活動のひとつであると私は思って、聞いている。
内容的にも法話的なものが多いということで、間違はないと思う。しかし内容については、日記なのだから別に基準などあるわけもない。時々、お付き合いのある人の書籍を採り上げるが、何とも言えないところだ。
布薩もそうだが、イス坐禅も(ある種の認定はあると思うが)宗派としてというよりは、南嶺老師のオリジナルな企画であると思う。ということは、自分の思っていることを直接に言っている、というものだろう。
そもそも「日記」なのだから、個人的な思いや考えを書くだろう。
ということで、その老師の「思っている」ところの記述を、今日の管長日記(2024/9/15)から拾ってみた。
そもそも、今日の日記の内容を、布薩の会の事業的なコミュニケーションのように整理してみたのだが、ちょっと変に感じたのだった。だったら、もっと宣伝的な、効果とかを説明するはずだし、話しの印象も違ったものだろう。全体的に「明るい」感じがしたのだった。
構成の捉え方を変える必要はないだろう。
1.日曜の状況
午前は日曜説教ともうひとつ法話、午後布薩の会
人間学塾中之島のひとへの謝辞、鳥取県から参加の僧侶のこと
甲野善紀先生のお弟子の井上欣也さん
2.当日の布薩の会の内容
3.参加者の感想からの「戒体」の説明
構成の順に見ていく。
1.日曜の状況
その日は関西から人間学塾中之島のみなさんが、二十名ほどお越しくださったのですが、一日行事が立て込んでいて、日曜説教の前に記念写真を撮るだけになってしまいました。ご遠方からお見えくださったのに申し訳ないことでありました。
→これは謝辞とお詫び
しかし、この布薩をみなさんと一緒に行っていると、疲れもすっかりとれて、体も楽になり、自然体に戻ることができたと感じました。
自分自身、この布薩の功徳は大きいなと改めて思ったのでした。
→布薩の「功徳」を実感できて、嬉しく思っている。
こういう熱心な僧侶がいらっしゃると、まだまだ日本の仏教もだいじょうぶのように感じました。
→熱心な僧侶と布薩の会で会えてうれしく思っている。取り組み範囲が僧侶にも注目されるということが嬉しい(?)
みなそれぞれに布薩の良さを感じてくれているのだと思いました。
→布薩がそれぞれの取り組みでも有効だと思えて、嬉しい
2.当日の布薩の会
今回は、布薩の説明をしながら、足首と足の指の運動を行ってみました。
これがまた好評でありました。
→このあたりは、老師は単純に、結構大喜びなのではなかろうか。「これがまた」とは非常にとか、思いがけずといったことだ。
3.「戒体」の説明
いただいた感想には体が楽になったとか、中には声がよく出るようになったとか、うれしい言葉がたくさんあります。
なんといってもやっている私自身がとても身心共に調うのであります。
布薩の功徳は実に大きいと感じるのであります。
→「うれしい言葉がたくさんあります」と、ご自分から嬉しいと表明している。
功徳の大きい、というのは参加者が喜んでいること、またそれを受けている自分の幸せみたいなものだろうか。
布薩の手順や「戒体」については、これはそのまま専門の説明だろう。
また、3.の説明のあとに、まとめとして4.があった方がよいのかもしれない。
このように書き出してみると、言っていることは単純であって、
1.布薩が色々な人に喜ばれているようで、嬉しい。
特に、熱心な(おそらく有望な)僧侶も参加してくれて嬉しい。
2.布薩前にも足指体操(これは重要だ、と)
3.感想の内容も、嬉しい。
要は、このまえの布薩の会は、とても嬉しいものだった。
総じて「布薩の功徳は実に大きいと感じるのであります」、ということだろう。
「十月は第二日曜日の日曜説教の午後はすでに別の行事が入っていて、第一日曜日の六日の午後に開催する予定であります」というのは、次回は一週前の第一日曜日に前倒しでやるから、よろしく、ということだろう。
布薩の手順と「戒体」は、参加された方の感想「大切な文言を口で唱え、礼拝を重ねることで、日々の生活の中で忘れがちなことを改めて心に刻み、自分の行いを見直すことができます」の意味を説明するためのもの、と分かる。
そもそもタイトルが「布薩の功徳」であり、1.に「自分自身、この布薩の功徳は大きいなと改めて思ったのでした」と振りを入れていた。
老師の言いたいこと、気持ちみたいなところを軸に捉えていく方法はよさそうだ。