管長日記「懐かしき思い出」解釈20241025
昨日、平林寺の開山やその修行道場を開いた僧が円覚寺に関連していたので、ちょっと調べたが、今日の日記で老師が円覚寺関連ということで紹介している。敬山老師のことも書いてある。ネット検索で調べるので、wikipediaも良いのだが、円覚寺が直接投稿することはよいと思う(ブログ相当とは思うが公式であろう)。老師は引用が的確に感じている。
老師の学生時代、平林寺で修行していたことも興味深い。老師ご自身も「法縁というのはいろいろなところでつながっているものです」と言っていて、人脈というものが重要ということだ。もっとも、禅はそもそも法系、師匠と弟子の関係に重きをおくので、会社とも違い、ある意味閉鎖的ではある。ただ、家族、血縁ということではないので、二世という閉鎖性の問題はない。相性はあるだろうが、能力、貢献の世界であって欲しい。まあ、人脈云々と言っているあたりは、煩悩、思考、分別によるところで、そこに注目するのも良くないかもしれない。しかし思想的な伝統というのもあって、禅であるがゆえに法系を調べる癖がついてしまった。
サムネイル画像の一行書は、「青松、寿色多し」という大休老師のもの。禅になじんでくると、このような書も良いものと感じてくるようになる。思想や行動というのは美意識を操るものなのだろう。
構成
1.平林寺開山の石室善玖禅師のこと
2.明治時代、平林寺僧堂を開単した峰尾大休老師のこと
3.南嶺老師、学生時代の平林寺での修行
■1.平林寺開山の石室善玖禅師のこと
平林寺開山の石室善玖禅師は、円覚寺の第三九世住持。一二九三年~一三八九年と、実に九十六歳の長生きの方であります。
「臨済宗楊岐派松源派。筑前(福岡県)の人。号は石室。 幼にして諸師に参じ、文保二年(一三一八)に至って古先印元・無涯仁浩と共に入元し、金陵(南京)の保寧寺に至って古林清茂に参じて遂に印可を受く。
また当時の碩匠の間を遍参して嘉暦初年(一三二六)に本朝に帰り、南禅寺に掛搭して竺仙に随侍す。中巌円月が万寿寺を退くや席を嗣いでこれに住し、次いで天竜に遷り、更に相模(神奈川県)円覚寺を董す。
応安元年(一三六八)建長寺に進住す。住すること数年にして山内に金竜庵を構えて退居するに、武蔵(埼玉県)の檀越、巌築(現野火止)に平林寺を開いて一世となす。
康応元年九月二五日平林寺に寂す。世寿九六。」『禅学大辞典』
基本的には、鎌倉~室町(南北朝)のエリート僧侶。コンパクトには「入元僧。筑前出身。元の古林清茂に師事。万寿寺・天龍寺8世・円覚寺39世・建長寺43世などを歴任。平林寺開山。」
■2.明治時代、平林寺僧堂を開単した峰尾大休老師のこと
「明治の時代に平林寺に僧堂を開単した峰尾大休老師は、円覚寺で修行された方であります。大休老師は、一八六〇年のお生まれですので、釈宗演老師とは一歳しか違いません。
明治十二年に円覚寺に掛搭しておられますので、明治十一年の秋に掛搭されていた宗演老師より一年後の掛搭であり、共に修行した間柄だったことが分かります。
明治二十八年、洪川老師がお亡くなりになった後、宗演老師から印可を受けておられます。はじめには永田の寶林寺東輝庵で指導されていました。また宗演老師に代わり、円覚寺の僧堂でも師家の代参も務めておられます。そして明治三十四年に平林寺に住されて、二年後の明治三十六年に僧堂を開単されています。
昭和十三年には妙心寺派の管長に就任され、昭和十六年には、臨済宗一三派が合同した臨済宗管長に就任されています。
御遷化は昭和二十九年でありました。
宗演老師は大正八年にお亡くなりになっているのに対して御長命だったことがわかります。」
「平林寺の峰尾大休老師は、はじめ句双紙(禅林句集)も読めなんだが、寺持ってからも修行学問、妙心寺管長時代には有名なくらい詩もできた。人間、志がないと伸びん。更にものが出来、修行ができても、菩提心がないと、死んだも同然だ。」『朝比奈老師の一転語』
老師は「天才肌の宗演老師に対し、こつこつ努力した大器晩成型の大休老師だと分かります。大休老師は、その書もすばらしのであります。よくお寺の山号額や寺号額で大休老師の書を拝見することがあります。禅僧らしい堂々たる書であります。
私も先代の管長から、大休老師の書をひとついただいています。「青松、寿色多し」という一行書であります。晩年の書ですが、とても迫力のある書です。」と印象をいう。
峰尾大休老師の次の代は白水敬山老師、伊深の正眼寺で修行された老師。そこで小南惟精老師に師事する。惟精老師は、円覚寺ともご縁が深く、円覚寺で修行、白雲庵の住職も務めた。
■3.南嶺老師、学生時代の平林寺での修行
「私(老師)が初めて平林寺を訪ねたのは学生の頃でした。
夏の摂心に参加させてもらったのでした。その当時筑波大学に小野慶太郎先生という教授がいらっしゃいました。教育学の先生でした。私はインド仏教学を学んでいましたので、小野先生に教わったわけではありませんでした。大学に坐禅のサークルがあって、その顧問をなさっていました。
この小野先生が、平林寺で長年敬山老師について参禅し、敬山老師亡き後は、糸原圓應老師について参禅修行されていたのでした。臘八の大摂心などは、何十年にもわたって参加されていた方です。そんな先生のご縁があるので、夏の摂心に学生が参加させてもらえたのでした。
今思い出しても有り難いことですが、学生が禅堂の中にいれてもらって坐禅させていただきました。禅堂で寝泊まりもさせてもらっていました。修行僧のみなさんと同じ暮らしを体験することができました。私は当時既に白山道場の小池心叟老師のもとで参禅修行をしていましたが、この平林寺の摂心に何度か参加させてもらっていました。初めて僧堂の暮らしに触れたのが平林寺だったのでした。そして、その時に僧堂の暮らしに感動しました。こうして坐禅して暮らせるなど、最高の暮らしだと思ったのでした。
朝は三時に起きて本堂で、読経し坐禅して。夜は午前零時頃まで本堂の縁側で坐禅して、澄み切った夜空を仰ぎながら、独り感激したものです。よしこんな暮らしができるのなら、この道に行くことに間違いはないと確信したのでした。」
ここは、少し驚いた。週末や長期の休みにはひたすら白山道場で修行し、修行僧の如く道場行事の仕事をしていたものと思っていた。
「また当時の師家は糸原圓應老師でした。この方がまた実に老師らしい老師でありました。その風貌、たたずまいにも感動しました。ただいま大乗寺の師家である河野徹山老師は、その頃坐禅の会に入ってくださって、ご縁ができたのでした。」
なお、河野徹山老師は、よく日記に登場する河野老師のこと。愛媛の宇和島で大乗寺の師家。圓應老師の弟子になったということである。筑波大学の後輩と行っていたのだが、白山道場の系統ではなかったのだと分かった。
■平林寺の今の住持は松竹老師
平林寺の今の住持は松竹老師、禅文化研究所の理事長、臨済会の会長ということである。
松竹老師をちょっと調べると、禅文化研究所のブログに「講演会「平林寺の伽藍と境内」 松竹寛山老師(平林僧堂師家)」という記事があった。平林寺住持の前は妙心寺派東京禅センター長だったようだ。そもそも禅文化研究所とは関係が強かったようだ。
■山川宗玄妙心寺派管長
ちなみに、禅文化研究所の『DVD 禅僧が語る 山川宗玄老師 「花が咲う」』の案内に次のような記載を見つけた。どこかで繋がっているようだ。
【妙心寺第六九八世 山川宗玄老師】
室号・霧隠軒。昭和24 年(1949)、東京都生まれ。埼玉大学理工学部を卒業後、24歳で平林寺(埼玉県野火止市)の白水敬山老師につき得度。同49 年、正眼僧堂に掛搭。梶浦逸外、谷耕月老師に参じ、のち耕月老師に嗣法する。
同62 年、興国寺(和歌山県由良町)住職、平成6 年(1994)、正眼寺住職ならびに正眼僧堂師家・正眼短期大学学長に就任。令和6(2024)年第698世妙心寺住持・管長に就任。
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