大乘起信論(5)

是の故に三界は虛偽(こぎ)にして唯心の所作なるのみ、心を離るるときは則ち六塵の境界無ければなり。此の義は云何?一切の法は皆な心從より起り、妄を念じ而しかして生ずるを以って、一切の分別は即ち自心を分別し、心が心を見みずんば相を得る可き無ければなり。當に知るべし、世間の一切の境界は皆な眾生の無明妄心に依りて而して住持することを得るなり,是の故に一切の法、鏡中の像の體として得可きもの無きが如く、唯心のみにして虛妄(こもう)なり。心にして生ずるときは則ち種種なる法は生じ、心に滅するは則ち種種の法が滅するを以っての故なり。

復た次に、意識と言う者,即ち此の相續識なり。諸もろの凡夫の取著轉(しゅじゅうた)た深くして、我と我所とを計り、種種に妄執し、事に隨って攀緣(はんえん)し、六塵を分別するに依りて、名づけて意識と為す,亦た分離識とも名づけ、又た復た說いて分別事識とも名づく。此の識は見と愛との煩惱に依りて增長する義なるが故なり。

無明の熏習に依りて起さるる識の所者、凡夫の能く知るに非ず。亦た二乘の智慧で覺すも所に非ず。謂く菩薩に依るも、初めの正信從り發心して觀察し、若し法身を證せば、少分に知るを得るのみ、乃至、菩薩の究竟地にも知り盡すこと能わざれば、唯だ佛のみ窮了(ぐうりょう)するものなり。何を以って故に?是の心は本從り已來(このかた)、自性清淨なるに、而も無明有り、無明の為に染る所、其の染心(ぜんしん)有り。染心有りと雖も、而も常恒(じょうこう)にして不變なるなり,是の故に、此の義は唯だ佛のみ能く知る。謂う所の心性は常に無念なるが故に、名づけて不變と為し、一法界に達せざるを以っての故に、心に不相應にして、忽然として念の起るを、名づけて無明と為す。

染心者、六種有り。云何が六と為す?一者、執相應染(しゅそうおうぜん)なり,二乘の解脫と及び信相應地とに依りて、遠離するが故なり。二者、不斷相應染なり、信相應地に依りて、修學する方便にて、漸漸に能く捨し、淨心地を得て、究竟して離るるが故なり。三者、分別智相應染なり、具戒地に依りて漸に離れ、乃至、無相方便地にて究竟して離るるが故なり。四者、現色不相應染なり。色自在地に依りて能く離るるが故なり。五者、能見心不相應染なり、心自在地に依りて能く離るるが故なり。六者、根本業不相應染なり、菩薩盡地は如來地に入るを得るに依りて能く離るるが故なり。

一法界を了ぜずの義者、信相應地從り觀察し學斷して淨心地に入り、隨分に離るることを得る、乃至、如來地に能く究竟して離るるが故なり。相應と言う義者、心と念法とが異なるを謂い、染と淨を差別するも、而も知相と緣相とは同じであるに依るが故なり。不相應の義者、心に即する不覺を謂う。常に別異に無きも、知相と緣相とを同じくせざるが故なり。又た染心という義者、名づけて煩惱礙と為す。能く真如根本智を障するが故なり。無明という義者、名づけて智礙と為し、能く世間の自然業智(じねんごうち)を障するが故なり。此こ義を何と云う?染心に依りて能見と能現があり、妄に境界を取り、平等性に違うを以っての故なり。一切の法は常に靜にして起相有ること無きに、無明不覺が妄に法與と違うが故に、世間の一切の境界に隨順して種種に智るを得ること能わざるを以っての故なり。

復た次に、生滅の相の分別者、二種有り。云何が二と為す?一者、麁(そ)なり、心與と相應するが故なり。二者、細なり、心與と相應ぜざるが故なり。又た麁中之麁は凡夫の境界なり。麁中之細と、及び細中之麁とは菩薩の境界なり。細中之細は是れ佛の境界なり。

此の二種の生滅は、無明に於ける熏習に依って而して有ある。謂う所は因に依り、緣に依る。因に依る者、不覺の義なるが故なり。緣に依る者、妄に境界を作す義なるが故なり。若し因にして滅するは、則ち緣は滅ず。因が滅するが故に不相應の心も滅し、緣が滅するが故に相應の心も滅する。

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