管長日記「キョキョ(嘘嘘)」解釈20241014

「嘘嘘」という題だが、これは臨濟録行録二での、黄檗に対する臨済の発声、態度である。細かいところを突いてきたのであるが、麟祥院で勉強会の話しだ。例の駒大小川教授の勉強会で、『宗門武庫』と老師が『臨濟録』について話している。開催は月によって変わるようだが、10月は7日だったようだ。この会は、小川先生の論文の進捗がわかってありがたい。今日の日記では、老師の調査、研究の話が中心である。いずれにせよ、この勉強会についての日記は、語録解釈の話題となるので、私としてはとても楽しみになっている。

最後に、老師は「そんな次第で臨済録の「嘘嘘」について学び直し、とても勉強になった会でありました」というが、聴者、読者としても面白かった。

構成:
1.『宗門武庫』慈照禅師の話(管長日記「学ぶ喜び」10/6の続き)、張無尽居士と漢詩
2.『臨濟録』行録二の「師又以钁頭打地三下,作噓噓聲。」
2-1.『臨済録』の文の提示
2-2.「虚虚」の四解釈
2-3.馬祖語録における「嘘嘘」の用例

■1.『宗門武庫』慈照禅師の話(管長日記「学ぶ喜び」10/6の続き)、張無尽居士と漢詩
原文は次。
《大慧普覺禪師宗門武庫》卷1:
慈照聰禪師。首山之子。咸平中住襄州石門。一日太守以私意笞辱之。暨歸眾僧迎於道左。首座趨前問訊曰。太守無辜屈辱和尚如此。慈照以手指地云。平地起骨堆。隨指湧一堆土。太守聞之。令人削去。復湧如初。後太守全家死於襄州。又僧問。深山巖崖中。還有佛法也無。照云有。進云。如何是深山巖崖中佛法。照云。奇怪石頭形似虎。火燒松樹勢如龍。無盡居士愛其語。而石門錄獨不載二事。此皆妙喜親見。無盡居士說。

小川先生の採り上げた問答は、その後半部分である。
「切り立った崖しかない無人の山奥、そこにも仏法はございましょうか?」という質問に対する答えです。慈照禅師は「有る」と言います。では誰もいない山奥の仏法とはどのようなものでしょうかという問いに、「奇怪なる石頭、形、虎に似、火、松樹を焼きて勢い龍の如し」という一句を答えたのでした。

その「奇怪石頭形似虎。火燒松樹勢如龍。」がきれいに対句になっており、また平仄も完璧に対になっていて、老師はこの時代(宋代)の持住の学問の出来、漢詩文の力に感心している。
対句は単語の品詞や概念の対応で、平仄は発声での4種類の音の高さ(変化)のこと。

奇怪 石頭 形 似虎。
火燒 松樹 勢 如龍。
対句はこの形でわかるだろう。音については、これをコピーしてgoogle翻訳に貼り付けて、その欄の左下にあるサウンドマークをクリックしてみるよい。対になっているというのは、音程がきれいに反転しているということがわかる。

漢詩については、ZENzineのサイトhttps://zenzine.jp/category/learn/zenpoetry/を、最近通して読んだのだが、とてもよかった。禅文化研究所の季刊『禅文化』で「漢詩講座」も連載があるが、同じ人によるようだ。

関連して、小川先生は李白の詩の一節「白髪三千丈」を解説、とある。

これは『広辞苑』を調べても「李白、秋浦歌」の一節で、「長年の憂いのために頭髪が白くなり伸び放題になったこと。心配ごとや悲しみが積もることの形容。また、誇張した表現の例とされる」と書かれています。
たしかに「三千丈」とはいかにも大げさなのですが、これも平仄の上で意味があるのです。次の句と平仄を完全にそろえるには、三千丈の「三千」の二文字は平字でないといけません。
ところが、中国の言葉で、数を表す言葉、一二三四五六七八九十、百千万とある中で、平字は三と千しかないのです。
そこで平仄を整えるには「三千」しかないということになるのです。

李白「秋浦歌 其十五」
白髮三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜
  白髮 三千丈
  愁ひに縁りて かくのごとく長し
  知らず 明鏡の裏
  何れの処にか 秋霜を得る

wikipediaにも解説がある。有名な詩のようだ。音声を確認すると「三千」の平字の意味がわかる。

■「又僧問。深山巖崖中。還有佛法也無。照云有。進云。如何是深山巖崖中佛法。」
真浄克文禅師は、古の禅僧が誰もいない深山に仏法はあるかと問われてあると答えでいるが、十字街頭に仏法はあるかと問われたら、無しと答えると言っています。どうしてかというと、それは名を貪り、利を逐うからだというのです。
これに対し、老師は「たしかに下手に人々の往来する町にでると、名利に迷うこともあるでしょう。しかし、やはり十字街頭で人々の為にはたらくも大事な禅の教えだと思います」という。入鄽垂手だろう。

古尊宿語録巻四二の寶峰雲庵真淨禪師住筠州聖壽語錄一 嗣法門人 法深 錄が原文のようだ。
《古尊宿語錄》卷42:
上堂。舉。僧問古德云。深山裏還有佛法也無。德云。有。進云。如何是深山裏佛法。德云。石頭大底大。小底小。忽有人問聖壽云。十字街頭還有佛法也無。但向伊道。無。為什麼無。貪名逐利。大眾。聖壽道無。古人道有。是同是別。試斷看。斷得出。也大奇。

■2.『臨濟録』行録二の「師又以钁頭打地三下,作噓噓聲。」
■2-1.『臨済録』の文の提示
原文は、
《鎮州臨濟慧照禪師語錄》卷1:
師栽松次,黃蘗問:「深山裏栽許多,作什麼?」師云:「一與山門作境致,二與後人作標榜。」道了,將钁頭打地三下。黃蘗云:「雖然如是,子已喫吾三十棒了也。」師又以钁頭打地三下,作噓噓聲。黃蘗云:「吾宗到汝大興於世。」後溈山舉此語問仰山:「黃蘗當時秖囑臨濟一人,更有人在?」仰山云:「有,秖是年代深遠,不欲舉似和尚。」溈山云:「雖然如是,吾亦要知,汝但舉看。」仰山云:「一人指南吳越令行,遇大風即止(讖風穴和尚也)。」師侍立德山次,山云:「今日困。」師云:「這老漢寐語作什麼?」山便打,師掀倒繩床,山便休。

「師はまた鍬で地面を三度たたき、ひゅうと長嘯した」は「師又以钁頭打地三下,作噓噓聲」。

■2-2.「虚虚」の四解釈
入矢先生の訳:「ひゅうと長嘯した」
老師は「嘘嘘」解釈を調べ、次の四通りと示す。

①従来説
「からうそぶく。鼻にのせた」というのが無著道忠禅師の解説です。
「そらうそぶく、声を出しながらゆっくり息を吐く様子」朝比宗源老師『臨済録』
「空嘯く也、黄檗の如何なる悪口も物の数ともせず、嘯き笑って身に受けぬ、師学共に恰好の働きぞ」岡田自適居士『臨済録贅辯』

ちなみに「そらうそぶく」とは、「空を仰いでうそぶく。そらふく。何気ないさまをする。そらとぼけたふうをする。」という意味があります。

②入矢義高説
「喉の奥から息を長く吐きながら鋭い音を出す。つまり長嘯すること」入矢『臨済録』注釈
「ゆっくり息を吐きながら喉から出す鋭く細い声」『禅語辞典』

③柳田聖山説
「よいしょ、よいしょとゆっくり息を吐き出す様子」『仏典講座30臨済録』解説

④衣川賢次(花園大学文学部教授)説
「「シッ、シッ!」。「嘘!嘘!」は不満、制止を示す擬音語。相手の対応を認めないしぐさ。ここで義玄は黄檗に対して超師の気概、自信のほどを示している」『臨済録訳注』

ここで、勉強会の現地メンバーによる検討が入る。

小川先生:「嘘嘘」は中国の言葉で、相手の発言を制止したり、人を追い払ったり、口から出てしまった不吉な言葉を消し去ったりする際に言う言葉で、「xu! xu!」(シーッとシューッの中間の音)。これは実際に中国では今も使う。臨済録のこの箇所も、それにあたる。
嘘を「うそ」という意味に使うのは日本語の用例で、中国にはありません。

大乗寺の河野老師(管長日記常連、老師の友人)、小学館『中日辞典』第二版にある解釈「口を大きく開けてゆっくり息を吐く。ため息をつく。〈方言〉「嘘」と言って反対や不満を表す。ブーイング。」
反対や不満を表す、今日の「ブーイング」に近いもの。

結論として、この「嘘嘘」は、そらうそぶくや長嘯するよりも、衣川注釈の「不満、制止を示す擬音語」として、「相手の対応を認めないしぐさ。ここで義玄は黄檗に対して超師の気概、自信のほどを示している」というのがふさわしい。

虚虚は、「シューシュー」といった発音(x\bar{u} x\bar{u})
聴衆がしきりにしーっ,しーっと不満の声を上げる.
听众不时发出嘘嘘的声音。 - 白水社 中国語辞典
口でしーっしーっと言い雌鶏を追い払った.
嘴里嘘嘘地把母鸡撵走。 - 白水社 中国語辞典

また、うそ(嘘)は「谎言」

■2-3.馬祖語録における「嘘嘘」の用例

原文
《馬祖道一禪師廣錄(四家語錄卷一)》卷1:
鄧隱峰辭祖。祖曰。甚處去。云石頭去。祖曰。石頭路滑。云竿木隨身。逢場作戲。便去。纔到石頭。乃遶禪牀一匝。振錫一下。問。是何宗旨。頭曰。蒼天蒼天。峰無語却回舉似祖。祖曰。汝更去。見他道蒼天蒼天。汝便噓兩聲。峰又去。一依前問。頭乃噓兩聲。峰又無語。歸舉似祖。祖曰。向汝道石頭路滑。

禅文化研究所『馬祖の語録』現代語訳

「鄧隠峰が、馬祖のところをいとまごいしようとした。
馬祖、「どこに行く」。
「石頭に行きます」。
馬祖、「石頭の路はすべるぞ」。
「あやつり人形のつもりで、その場次第で演技をやりますよ」。すぐさま出かけた。
石頭に着くやいなや、禅牀を一巡りし、錫杖を一振りして問うた、「これは何の宗旨か」。
石頭、「やれ悲しや」。隠峰は言葉もなかった。
引き返して馬祖に報告すると、馬祖、「君、もう一度行け。彼がやれ悲しやと言ったら、ぐにフーッと二回息を吐け」。
隠峰はまた行って、全く前と同じようにして問うた。
すると石頭はフーッと二回息を吐いた。
隠峰はまた何も言えなかった。もどって馬祖に報告すると、馬祖は言った、「石頭の路はすべるぞと言っておいたろ」

石頭禅師が上手だった、といった感じだが、馬祖対石頭という構図で見ると面白いのかもしれない。

老師、「「フーッと二回息を吐く」というのが「嘘嘘」なのですが、「やれ悲しや」というような不吉な言葉を消し去ったりする「シー、シー」と読んだ方が、意味がはっきりします」と。なるほど。

鄧隱峰(?-806(820))は、洪州宗、五臺山僧。邵武鄧氏。初參馬祖道一(709-788),後謁石頭希遷(701-791),後於馬祖言下契悟、とある。弟子も大変だ。

webで検索していると、小川先生は鄧隱峰のことを割と最近調べていたようだ。国際禅学研究所の小川隆先生の「語録」会読会開催の報告として、2019年6月17日(月)に小川隆先生(駒澤大学教授・弊所顧問)をお招きして「語録」会読会を開催、とある。ここで、「語録」会読会は2015年4月に始まり、毎月1回のペースで開催されております。昨年度から『五家正宗賛』の会読を進めており、今回は石頭希遷一の章のうち、鄧隱峰および薬山との問答を読みました、となっている。このことも利いているのかもしれない。

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