本覺思想の形成(4)
草木成仏論にせよ本覚思想にせよ、凡夫が直接に成仏することを設定する。ただ、凡夫が仏であるとはならない。これは原始仏教からの、そもそものこと。ただ、大乗仏教はインドで生まれたものであって、故に如来蔵や仏性という概念がインドで出てきたと推定される。それが、中国に来て、密教の即身成佛や、禅の頓悟、即心是佛となって、そして草木成仏となったのだろう。《續古尊宿語要》卷5に12世紀の臨済宗黄龍派の華藏退菴先和尚の言葉がある。
臘八日云。二千年前。大覺世尊。適丁今日明星現時。於菩提樹下。成等正覺。普觀法界一切眾生。乃至山河大地草木叢林。悉皆成佛。遂拈拄杖云。既然如是。且道。這拄杖子。成什麼佛。住何國土。說何等法。乃卓三下云。三轉法輪於大千。其輪本來常清淨。若能奉持速取證。又卓一下云。急急如律令。
如来蔵思想の論書『大乗起信論』は馬鳴(1,2世紀)作、真諦(499-569)訳とされるが、作者と作年代には疑いがある。中国での成立も疑われる。5,6世紀以降の仏教の隆盛が中国中心になったことも要因だろう。しかし、大般涅槃経は偽経ではないようで、チベット仏教も如来蔵に依るようなので、如来蔵思想そのものはインドで生まれた思想だろう。
『大乗起信論』では、心を心真如と心生滅との二面から分析する。心真如は佛の観で、心生滅は煩悩に迷う心の観である。本覚は、心生滅の覚(悟り)において現れる。
衆生心={心真如、心生滅={不覚、覚={始覚、本覚}}}
もしくは
衆生心―心生滅―覚―本覚
本覚は迷いの心に内在する悟りで、凡夫の悟の目的とする心である。始覚は不覚から本覚に向かう状態にある心である。
ただ、上の分類、系統はそもそもおかしい、違和感のあるものだろう衆生心を分類すると、そこに心真如がある。衆生の心にも仏と同等の部分があっても可とする。しかし心生滅の中に本覚がある。もしくは心生滅に於いて、不覚から本覚に至るといった、「ありうる状態」についてのモデルとして、本覚にある状態の人の心は心真如なのではないかと考えてしまう。こうなってしまうと、始覚の位置づけ、その時間経過の問題となり、これが頓なら、そもそも衆生心は心真如となる。唐代の禅にある、「如何是祖師西來意」である。
日本としては、禅は鎌倉期、中国としては宋も後半になってから入ってきた。そこで、日本では天台の本覚思想として発展したのだろう。本覚門、本覚法門であり、始覚門という言葉が『大乘起信論』と対応する。
良源(912-985)は源信に本覺門を、もう一人の弟子の檀那院覚運(953-1007)に始覚門を授けたとあり、口伝法門として惠心流、檀那流の流れとなったとされるが、実際は院政期にその二つの流派があったということが単に事実であるようだ。
天台宗において口伝であり、わかりにくいのであるが、そもそも密教の伝授や、禅の師弟の傳法も同じである。研究的立場なら「わかりにくい」で済む話だし、教団が権力と一致していれば教団の運営に問題はないだろう。時代が下ると、思想が多様化し、権力者の選択、多極化と民衆の力、教団を相手にしてくれる人の数が問題になるだろう。
参考:末木文美士、日本仏教史、新潮文庫、1996