管長日記「釈宗演老師を思う」解釈20241101

今日は釈宗演老師(1860-1919)のご命日。合掌。

老師の日記にしては珍しく、今日の予定について、意気込みを記す。
「本日法要を務める私は、奇しくも宗演老師がお亡くなりになったのと同じ歳なのであります。万感の思いをこめて法要と法話を務めさせていただきます。」

構成
1.東慶寺で法話
2.釈宗演老師の解説1 青年期まで
3.釈宗演老師の解説2 円覚寺管長になってから

■1.東慶寺で法話

「宗演老師のお墓は、東慶寺様にありますので、私は修行僧の頃からご命日にお墓参りを続けてきました。これひとえに宗演老師をお慕い申し上げるからであります。
本日は、有り難いことにその東慶寺様で、宗演老師のご命日の法要が営まれます。その法要の導師と法話を務めさせていただきます。なんと有り難いご縁であります。
修行僧の頃は、こっそりお墓にお参りしてお経をあげるのみで、東慶寺様の中に入ることなど夢にも思いませんでした。それが今になって東慶寺様で法要を務め、法話までさせてもらえるとは、感慨無量であります。」

驚いていることがよくわかる。
東慶寺というのは歴史あるお寺である。wikipediaの記載量も多い。
 東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

かなり特徴的なお寺であって、ここに釈宗演老師のお墓があるのも驚く。
老師の法話は、東慶寺住職の企画のようだ。

「宗演老師については、禅文化研究所発行の『明治の禅匠』には、朝比奈宗源老師と井上禅定和尚とお二人が書いてくださっています。この『明治の禅匠』に一人の人物について二人が執筆して掲載されているのは宗演老師のみです。」
この本は良い本です。

井上禅定和尚の冒頭記述:
「朝日ジャーナル編の『明治百年を築いた日本の思想家』 六十七人中に、仏教者としては釈宗演、暁烏敏、鈴木大拙の三人のみ。『広辞苑』に明治以後の禅僧では宗演と天田愚庵のみ、愚庵は万葉風歌人としてとりあげられているもので、禅僧としては宗演のみとなる。この二例によって宗演の特異性が知られる。」

■2.釈宗演老師の解説1 青年期まで

「臨済宗の僧。号は洪岳。福井県の人。妙心寺の越渓、円覚寺の今北洪川(1816~1892)などに就いて参禅、近代的な禅の確立に努めた。円覚寺・建長寺管長、京都臨済宗大学長。(1859~1919)」(『広辞苑』)

「お生まれになったのは、安政六年であります。それは、あたかも安政の大獄の最中でありました。徳川幕府が終わりを告げ、明治新政府が開かれようとする激動の時代に産まれたのです。
福井県高浜に生を享けられた宗演老師は、その遠戚に妙心寺の僧堂を開単された越渓老師がおられ、その縁によって越渓老師の弟子として得度されました。」

「後に宗演老師は「児童研究者に云わせたら甚だ教育の当を得ぬとか何とか云うかも知れぬ」と述懐されているように、まだ幼い頃から、禅堂生活をたたき込まれたのでした。
その後更に建仁寺両足院において千葉俊崖老師について修行されました。
この時に後の建仁寺の管長となられた竹田黙雷老師と親しくなられています。」

釈宗閻老子も建仁寺で修行されていた。ここからの伝灯だろうか。

「二十歳の頃に鎌倉の円覚寺に掛錫し、今北洪川老師について修行を始められました。
洪川老師は越渓老師と同じく儀山善来禅師の門下であります。
俊発怜悧な宗演老師は、なんと在錫わずか五年ほどで伝統の公案修行を仕上げられ、二十五歳には大事了畢されました。
既に今北洪川老師から、将来の円覚寺を託されるようになられたのです。」

「これだけでも、禅僧一代の修行としては相当なもの」と老師の感想。

「二十七歳で、慶應義塾に入って、英語など新しい学問を学ばれました。
今北洪川老師も慶應に行くことには猛反対されているように、当時としては既に常識を打破した行動でありました。そこで福沢諭吉先生とも親交が深まりました。慶應で英語を学び、当時の最先端の知識に触れた宗演老師は、更にセイロンに行って仏教の原典を学ぼうとされました。このセイロン行きも、福沢諭吉先生の勧めがあったのです。今の時代とは違って、この時代にセイロンに行って学ぶことは、まさしく命がけでありました。」

ここのところは、今北洪川老師はあまり良いと思っていなかった、と見たか、聞いたように思うが。それで帰国後は宝林寺なのだろうか。

「二年ほど学ばれて宗演老師は、日本に帰ってしばらくは横浜永田の宝林寺で教化活動をされていました。」

■3.釈宗演老師の解説2 円覚寺管長になってから

「明治二十五年に今北洪川老師が亡くなり、宗演老師はわずか三十四歳で円覚寺の管長になられました。」

次が、世間に知られるようになるきっかけである。
「その翌年、シカゴで万国宗教会議が催されました。この会議は十七日間にも及び、多くの方が参加された大会議でありました。
日本の仏教界にも参加の依頼があったのでしたが、当時の仏教界は廃仏のあおりを受けて疲弊してしまって、キリスト教の国に行っても仏教の主張は理解されがたく、却ってキリスト教に呑みこまれてしまうと考え、出席には積極的ではなかったのでした。しかし、そのような中であるからこそ、出るべきだと考えたのが宗演老師でした。宗演老師をはじめ四名の僧侶がシカゴの宗教会議に出席されました。
この演説が、アメリカに仏教が伝えられる嚆矢となりました。
この時のご縁によって、後に鈴木大拙先生が渡米して東洋の古典を翻訳されるようになったのです。」

「帰国してからも、宗演老師は円覚寺の管長師家を勤めながら、全国の教化に廻られました。一時期、建長寺の管長も兼任することにもなったのですが、明治三十六年に建長寺円覚寺両山の管長を辞して東慶寺に移られました。」

ここで、お墓がある理由がわかった。

「そして二度目の渡米をなされました。ラッセル夫人の援助もあって、引き続きヨーロッパを巡錫され、インドの仏跡を巡拝して帰国されたのでした。」

「大正三年五十五歳の時に臨済宗大学長と花園学院長に就任されています。臨済宗大学は今の花園大学であります。」

「大正五年、円覚寺派管長に再任されることとなりました。
この時に、法嗣である古川尭道老師を僧堂の師家に任じて、自らは管長職のみを受けられました。大正六年には大学の学長を辞されています。」

「宗演老師は、その智の博さに於いても、その慈悲の深さに於いても、その意志の強さに於いても、群を抜いておられ禅僧でした。
宗演老師には、人間的な魅力にあふれ、欠点を見つけるのが難しいほどの人物でした。
ただ唯一欠けていたとすれば、お体が丈夫でなかったことではなかいことかと思います。
大正八年の六月頃から、体調を崩されて講演法話など休講なされるようになり、招請を断るようになられました。
療養につとめられたものの、薬石功無く、十一月一日に御遷化なされました。
世寿六十一、法臘五十でありました。」

確かにと思うところもあるが、大正のころである。まだまだ、といった感覚があるので、そう言わせてしまうところだろう。とはいえ、常人の数倍の活躍をしたような感じと思う。

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