見出し画像

【小説】白い背中

 午前五時。
 髪のすっかり白くなった老人の朝は早い。
 老人は、その時刻、毎朝慈しんで小奇麗にしている白い愛犬を連れて散歩に出る。十年前、老人は、近在で仔犬が七匹生まれたと聞くと、さっそく行って頭を下げて、一匹を貰い受けてきた。
 列島の南から、桜の蕾の芽吹きの知らせの届くころに、老人の家にやって来た一匹の仔犬は、当初病みがちであった。しかし老人の全身から照らす慈愛を日に日に吸収し、花が去って若葉の照るころには病は自然に頭べを垂れて地の奥へと去り、仔犬は老人を見ると飛び跳ねて刹那もないほどに喜びを空に向って表現するまでになった。
 以来、仔犬は一度たりとも病に伏せったことはない。この十年、毎朝五時に愛犬を連れて散歩に出ることが、老人の日課であり、娯しみとなった。
 時は巡り、また冬が来た。 
 二十年来の厳寒として名高いその年は、一歩外へ踏み出ると、連日のように足下から皮膚を射刺すように凍気が駆け昇ってきた。老人は、赤いマフラーを首に綿の分厚いジャンパーを羽織って、真白い毛並みの仔には緋の胴着を当てがった。手には今では少し錆の出はじめた火鋏みとポリ袋を持ち、住宅地を西の方へゆったりと町の中央の市営公園へと向う。常の散歩道である。
  冬の朝は遅い。暗がりの中、赤がゆらゆら明滅して進めば、その下では白地に緋があちらこちらと揺れながら動く。時に赤いマフラーの流れが上下する。老人は、ゴミを拾って歩いていく。
 老人の住むマンションから街の中央の公園までは、ゆっくりと歩を進めて十五分ほど。道すがら、老人は街に傲然と捨てられた空き缶やペットボトル、菓子袋の類を火鋏みで拾って歩く。日によっては袋にいっぱいになるゴミを、公園のクズかごに種類に応じて分別して捨てていく。老人が、このように毎朝ゴミを拾って歩くようになったきっかけは、足許をゆく愛しい仔の戯れだった。
 開き口に雨垢のこびりついて塞がった、文字も泥垢にまみれて判別できないスナック菓子の空き袋を、仔犬が口にくわえて離さなかった。翌朝から老人は、火鋏みを手にして、散歩の往時にゴミを拾って歩くことを日課とした。以来、不調に起きられぬ朝以外は、この街の人の行く道を黙々と綺麗にして歩く。
 しんと街ごと冷え込んだ朝も、右に左に、ときには戻って老人の顔を見上げる喜びいさんだ緋を先にして、老人は腰を屈めてゴミを拾いつつ歩いていく。
 
 そのひときわ大きな黒壁をもつ家屋は、背に街の中央公園を配している。
 市の東から流れてきて比較的新しく整備された住宅地のはずれにある黒壁の家の横を細々とめぐって一本の細い川は、公園の入口へ至って忽然と地に姿を消す。市の真ん中にあるこの公園が市の宅地開発に従って設営されたという事実を、地下を這うこの川が如実に物語っている。
 ひときわ大きな黒壁のその家は、代々この地に土着した豪農の末裔である。現在は、かつて周囲に広々と持っていた田畑を次々と手離し、家主は会社に宮仕えをしているが、家屋の構えは改装を重ねているとはいえ、今も往時の名残を留めている。
  門構えは間口が広くて分厚い。門より入ってコンクリートで敷き詰められた灰色をした庭地は、もう息もしていない。かつては花も咲いていた庭の左手奥の隅に、ちょっとした畑が今も耕作してあるが、そこも半分は放置されて、夏ともなると薄緑をした葱が申し訳なさそうに背中を丸めて心許なく幾本か並んで生える。
 畑の手前、門から入ってすぐ左にちょっとした物置が拵えてある。これは、新興の住宅地の中にひとり残った旧家の界隈にはよく見られる、黒い木張りの壁を鉄枠で打ち建てた昔からよくある鍬、鎌などを入れておく納屋である。
 だがもはやその鉄枠は、赤味がかった錆色もすでに通り越してぼろぼろと崩れ落ちている。それでも、屋根だけはここ数年一部を補修したと見えて、陽に照らされると色落ちしていない生まれたままの灰色をしたトタン板が、ところどころ陽に照らされて透明に浮き出てくる。
 錆に繁殖されて朽ちかかった鉄枠を下へとたどってゆくと、ちょうど物置を十分の一の姿にしたようなほんの小さな小屋がある。犬小屋である。
 犬小屋は、ちょうど後ろ手に見える畑にも増して放置されている。
 すぐ横には、錆びついてもはや元の肌色も判然としなくなった疑問符号のような形をした鉄杭が無造作にコンクリートに打ちつけてある。杭から犬へとつながる鎖が伸びて、長さはピンと張り詰めて五十センチほど。今では凹凸の傷みのはげしいアルミ缶の飯椀はかろうじて鎖の届く範囲の中に置かれてある。
 黒壁の家屋の家人の認識の中には、仔犬も成犬へと大きくなるということが、どうやら予期されていなかったかのようだ。小さな小屋の小さな住人は、いったい幾星霜、五十センチ四方の範囲のなかで、ひとり雲と星の移ろいを眺めてきたことだろう。
 小さな小屋の住人は、いまではそばを行くもの、特に人間には興味を示さず、仮に誰かが門越しにチラリと覗き見ることがあったとしても、決して首を傾げて人の方を見遣ることはしない。もちろんそれは、この黒壁の家の飼い主にあってはなおさらである。
 午後八時。
 黒壁の家の主婦の登場である。
 色褪せた金属性のボウルを片手に、いつも通り少しばかり周囲に気兼ねをする様子で、勝手口から灰色をした庭にこの時間になるとご婦人は浮かび出てくる。
 そそくさと犬の飯椀に手を伸ばすと、常のごとく中にまだ前の餌が残っていようとお構いなく、提げて来たボウルの中の残飯を混ぜて入れる。犬ももはやこの主に目をくれることはない。何の感情も湧き起こることもなく、じっと横たえて目を瞑っている。
 歳のころ四十半ばのその主婦は、次に厚い板張り二枚の黒板の門扉まで来て、右扉の下にある脇戸の引き戸をそっと開ける。まず頭から出て外の様子を窺い、手にしてきた当夜の残飯を、前を行く川にさっと捨てて走って戻る。
 さっさと奥に引っ込んだあとには、あまり水嵩の多くない細い川に、たったいま捨てられた残飯の下に広がって、どす黒く緑色に液状化したこれまでのめし粒らしきものが澱んで沈んで流れずに滞っている。
 
 十年前。
 春の訪れを聞くころ、町内の家具屋の紀州犬が仔を産んだ。七匹であった。
 家具屋の主人は、それまでも飼い犬が仔を産むと、近在で欲しいと云ってくる者があれば、申し出を断ることはしなかった。その時も、七匹みなが生まれて三か月もすると、母親の元を去った。
 一匹は、真っ先にやってきた、見つめられると一瞬身の竦む思いのする、だけど次の瞬間瞳の奥の暖な眼差しにほっとする、そんな老人に貰われて行った。
 最後に残った一匹は、歳のころ三十半ばの品の良さげな婦人に連れられてやってきた、うつむき加減に決して目を合わせようとはしない小学生の男の子と、先に同級生が貰って来たのでどうしてもここの白い仔犬が欲しいとこの子が言うものでと、麗らかな微笑を浮かべながら強引な母親の手で連れて行かれた。

 二枚の画がある――。
 一枚は、写真である。
 公園に咲きみだれた淡い桜の花を背に暖な朝日を受けて満面に笑っている、朝日よりも晴れやかな老犬の笑顔の写真である。平成に入った頃に建てられた市営住宅の鄙びた一室、仏前の置き台にそっと置かれた一枚である。
 もう一枚は、夏、照り返す陽ざしの真下で、陽ざしを遮るものとて何もなく、錆びて朽ちかけた犬小屋の前で、ただひとり首をうな垂れて人に背中を向けて佇んでいる、白い犬の背中の風光である。背中は、すでにところどころ白い毛が抜け落ちて赤い皮膚が露わになっている。その赤ずみ爛れた、ところによっては膿が出ている背中の様だ。
 写真でもなく、誰かに描かれた絵でもない、白い犬のこの背中は何であろう。
 それはどうやら、幼き日の作者自身の、けっして消えることのない記憶の中の遠い心象風景を映した心のなかの風光である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?