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「上眼に小野さんの姿を眺めた小夜子は、変わる眼鏡を見た。変る髭を見た。変る髪の風と変る装とを見た」~夏目漱石『虞美人草』第九章~

『虞美人草』の第9章は、例の小野の婚約者になっている小夜子が、父親の孤堂先生と一緒に、東京に出てきた章である。ここもまた、割とサスペンスな章で、美文的なニュアンスをさっぴいて読むと、小夜子が変わった小野を見て、ごくりと息をのむシーンが印象的だ。

この辺、通俗的であろうけれども、割と面白く読めた。失敗作、失敗作連呼するほどのものだろうか。よっぽど、現代の作品の方が通俗的で、失敗作に該当するものが多そうだ。『虞美人草』を失敗作のスタンダードにするならば、と話であるが。

小野が義理でしつらえてくれた家に、孤堂先生と小夜子はやってくる。そこに小野が訪ねてくる。孤堂先生はいない。小野は、小夜子を面倒だと思っている。小夜子は、絶対に小野と結婚すると決めている。この思い込みが、小野の変わりようを見抜く。小野の気の乗らなさ、昔と違う雰囲気を感じ取る。

おとうさん(孤堂先生)が帰ってくるまで、待っていてください、と小野に言い出しづらい小夜子。なぜなら小野が、藤尾に惹かれ、藤尾のもとに早く行きたがっているから。婚約も破棄したいと、小野はいいかけている。

「あなたはあの時分と少しも違って入らっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾する様な、自分を疑う様な、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳ばかりで、徒ずらに育った縞柄と、用い古るした琴が恨めしい。琴は蔽のまま床の間に立て掛けてある。

琴の音が、この小説の背後で登場人物の運命を預かっている装置であるといったのは、昔の東大総長だったか。

事実、小野さん自身の口から、「立て切った」障子の奥で琴を響かせていた女を妻とするという告白を受けとった瞬間、藤尾の口からは最後のホホホホが洩れるだろう。そしてその「歇私的里性の笑は窓外の雨を衝いて高く迸った」のである。藤尾は、雨の日の琴の音の前に破れ去ったのであり、歇私的里性の笑いは、その最後のむなしい抵抗なのだ。

蓮實重彦『夏目漱石論』

元総長は、『虞美人草』における言葉の編成の次元と、登場人物たちの動きを分ける。当然ながら、登場人物たちは、漱石が書き知るす言葉の次元を見通すことはできない。けれども藤尾は、「琴の音」が自分を脅かす音であるということを感覚的に触知して、その音にホホホホという彼女独特の笑い声で虚しく抵抗を試みると、述べている。

小夜子も、自身の武器が言葉の次元における「琴」にあると、感覚的に理解し、小野の背後にある(小夜子がまだ知らないライバルの)藤尾の影に対して、琴を取り出そうとするのは、そうした理由による。

いささか否定的な色調で描かれている藤尾の人物像が読むものになお鮮明な印象となって迫ってくるのは、その驕慢さという個人的な性格の徹底ぶりからのみくるものではない。何よりもまず、「作品」という言葉の磁場を統御する不可視の中心といってよい琴の響きにただ一人で抗うという、その説話的な力学の充実ぶりによって藤尾の身振りは感動的なものとなるのだ。

蓮實重彦『夏目漱石論』

本来、読者にしかわからないはずの宗近くんと甲野さんが京都の宿で聴いている琴について、藤尾が言及することは、漱石一流のかすかなメタフィクションだと思っていたのだけれども、まさにこの「不可視の中心」である言語編成に対して、言語的な構築物であるはずの藤尾が気づいている/気づかされている、ことを、読者にさらりと元総長は開示してくれていた。

近代小説の言語編成、言語表象の二つの層について、読者はキチンと向き合わねばならないということを、漱石は書いてくれている。

私はもちろん言葉が表象する物語言語表象を愛するが、現実主義者としては、私が向き合っているのはそこに並んでいる言葉の列だけ、という意識もある。だから、言葉の列の組み立て言語編成が気になるし、そういう論じ方も楽しいと思う。

言語編成に対して、言語表象であるキャラクターが徹底的に無反応であるのか、そこを行き来するような仕掛けを用意するのか、漱石のちょっとしたいたずら心、教育的配慮、そういうものが垣間見える章に感じた。

この後、小野は小夜子を置いて、孤堂先生とは会わずに、さっさと藤尾の元に行ってしまう。小夜子から、そんな小野の振る舞いを聞いた孤堂先生は、それは博士論文に熱中している男の振る舞いだとよく解釈する。ハハハハと笑い飛ばす。

博士論文に熱中している男は、おそらく藤尾に会ったりしない。会うのだとすれば、それはきっと博士論文に行き詰まってる時だろう。

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