ウィリアム・フォークナー「エミリーにバラを」
街の名物になっていたガンコばあさんが死んだ。
この設定さえ頭に入っていれば、間違うことはないと思います。
私は若い時、先輩に「フォークナーって何から読めばいいんですかねえ」と聞いて、「やっぱ、エミリーにバラを、か、あの夕陽、じゃない?」と言われ、「エミリーにバラを」を読んだら、ちんぷんかんぷんだったことがあった。
もう今は、『怒りと響き』も読んだし、『八月の光』も読んだし、『サンクチュアリ』も『アブサロム!アブサロム!』も斜めに読んだ。『死の床に横たわりて』も読んだし、『寓話』も読んだし、『野生の棕櫚』も読んだし、『自動車泥棒』も読んだし、『パイロン』も読んだ。『行け、モーセ』も『蚊』もスノープス三部作も、パラパラ観た。
それで、「エミリーにバラを」を再読してみようと思ったのだった。
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ガンコばあさんのミス・エミリー・グリアソンは、街の有力者であったサートリス大佐に税金を免除された。
サートリス大佐は、架空の街ジェファソンの設立者みたいなもので、ある種の王、そんな存在で、一応合理的な説明をでっちあげて、エミリーの税金を免除してあげた。
ところがサートリス大佐が亡くなり、もっと近代的な市長や市会議員に代替わりするになって、エミリーからも税金をとろうとなって、訪問したり、アレコレしたが、エミリーは税金を払わなかった。
エミリーには若い頃、結婚話もあったが、父の死のドサクサに、いつしか立ち消えになった。その後、北部からホーマー・バロンという技師がやってきた。そして、エミリーと恋仲になったようにみえた。しかし、ホーマーは、いつしかいなくなった。どこかへ去ったのだろうということだった。
エミリー家の悪臭に、周辺住民は悩まされた。それで、陳情したりしたけれども、改善はできなかった。エミリーはほとんど外に出てこなかった。
エミリー家で、習い事をしていたこともあったけれど、それも何年かで、引きこもりのまま長い年月が経った。
エミリーが亡くなって、家の中に例の使用人が、人々を招き入れた。使用人はそのまま行方をくらました。入っていくとかびくさく、奥にあかずの間があることを皆が知った。
その部屋に入っていくと、死体が完全に風化しつつある痕跡があり、その頭や顔のあったところに、エミリーの特徴だった長い銀髪が落ちていた。
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サートリス大佐が何者か、ということがわかっていると、エミリーにフォーカスを集中できる。サートリス大佐って誰?なんでそんな偉そうなことできるの?みたいな疑問に苛まれなくていい。
サートリス大佐については、フォークナーの曾祖父がモデルになっているとか言われているけれど、もともと『サートリス』という作品が白水社かなんかで読めた。ただ、近年『土にまみれた旗』というオリジナル原稿の全訳が出た。
とある街にやってきた男があれよあれよという間に、街の有力者に成り上がっていく。それが(はなはだ雑なまとめだけれども)サートリス大佐と言って大きく間違いはない。
エミリーは、しんねりむっつり女子で、ガンコもので、自分のスタイルを崩さないで、時代に抗うようにして生きている。これは『八月の光』で出てくる、ジョアナ・バーデンやゲイル・ハイタワーのキャラクターと類似性がある。こうしたキャラのハイブリッドが、エミリーだと思えばいい。最初に読んだときは、こうした人物造形のパタンがわからなかったことも、ちんぷんかんぷんだった理由である。
こうした性向が、当時の南部人の特徴であったとは、まだ何も言えないけれど、フォークナーの目に映る典型例であったとは言えそうだ。でも、これ、日本でも、現代でも、普通にいるよね。住んでるんだかなんなんだかわからない結構でかい家の、人。これ、バルザックの「グランド・ブルテーシュ奇譚」にもこんな話あったね。住人亡くなって、入ったら床下に白骨死体、日本でもあるじゃない。世界各国、この種の事件はあったのかね。
でも、アメリカの場合は、出入りが緩いのと、家の敷地が広くて、出入りする人の出自に無頓着ということも、この種の事件発覚が遅れる、理由だったのかも。エミリーが若い頃って、まあまだ19世紀だし、この種の近代の周縁にある地域の空気感は、ちょっとノスタルジックな感じになっちゃうよね。もう。前時代的なものへの批判というよりは。
ちゅうわけで、次は「あの夕陽」に手をつけようかな。