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「智子、そして昭和 (4)」/愛情の交換と子宝、仕合せ

(4)
 それからというもの新司のやりようや態度が以前とはっきり変わった。智子が感じたのは優しいまなざしが頻繁に自分にむけられるようになったことだった。当初智子が何か重いものでも運ぼうと苦労しているときでも知らん顔だったが、気づくと無言で手伝うという風なことになった。そんなとき、智子が見ていると笑顔とまでは言えないが優しいまなざしが自分に向けられるように感じることもしばしばだった。智子は温かいものが胸に流れていくのを感じたが、それは以前の新司を知るものが見たこともない表情だった。
 いつのことだろう、夫婦になったのだから夜のことはあったが、このころから新司の体の接し方に智子はどきっとするような優しさを感じるようになった。最初、智子は自分がどうしたらよいか、わからなかった。ただ新司が深い安堵と喜びを感じているのがわかり、たまらなくうれしかった。
 寝ているときなど、目はこちらに向けていなくとも智子を温かく見つめ続けていてくれているように感じた。事実、目を覚まして新司を見るとこちらを眺めていることが度々あった。智子は時に胸が一杯になるほどになった。
しばらくたってからだろうか、少し月日を重ねてきてであるが、あるとき自然に智子も新司に体を合わせることができるようになった。
 そのころである。新司が
「智子、俺たちの子供が欲しいな。」
と言った。
「?」
 智子はどう答えていいかわからなかったが、自分が子供を産める可能性があることは生理的なことから気づいていた。ただすでに三十六にもなっており身籠ることはないかもしれない、と覚悟はしていたものだった。
 でも新司にそう言われてみて改めてこの人の子供が欲しい、と願う自分がいた。そう気づいたとき、もう何も迷いはなかった。
 この人の子供を産むわ、きっと生むわ、、、、、、。

 子供ができるまでさほど時間はかからなかった。次の年の春に男の子が生まれた。しばらく夜も昼もない日が続いたが、ある晴れた朝、智子が赤子に乳を飲ませていた。何気なくをそれを眺めていた時、新司ははっとして息を飲んだ。
 智子の普段より大きく膨らんだ乳房に赤子が目をつむって一心に吸い付いている。母の白い美しい乳に、けがれのない赤子が無心に吸い付いている。安心というと、これ以上ない安心なのかもしれない。そして母はすべてを与えている。このような美しさは今まで見たことがない。これまで智子を女性として美しいと思ってはいたが、こんなにも人として美しい姿を魅せてくれるとは、、、。新司はその姿に圧倒されるようだった。
 さらに翌々年の春先には次の男の子が生まれた。
二人の子供は母の愛情を受け、人並みの病気ややんちゃはあったがすくすくと育ってくれたようだ。
 新司は、下の子のおむつが取れかけたころ、
「智子は女学校を卒業しているだろう。子供たちによく勉強を教えてやってくれないか。」
「?」
「もちろん僕も時間があるときは教えてやりたいが、二人の子供たちには是非学校にやらせてやりたいんだ。」
「はい」
「智子も知っているように僕が旧制中学を中途で止めている。実はもっと勉強をして戦車とか戦艦とか、まあ今で言えば自動車とか航空機の設計をしてみたいと思っていたんだ。子供たちにはそれぞれのしたいと思うこと、志望が叶うよう学校にやらせてやりたいんだ。できれば大学にまで。学問というものは奥の深いものだと思う。彼らが望むなら存分にやらせてやりたい、僕がそう思った分まで。」
「―――わかりました。
読み、書きに算術をさせていきましょう。私、子供たちが勉強を好きなってくれるように、少しづつ様子を見ながら教えていきます。それでいいかしら?」
「ああ、そうだね。ありがとう。
――――智子の言う通りだね。そうだ、押し付けるのでなく少しづつ様子を見ながら、好きになってくれるように。
そして自分から考えるように導いてやってほしい。」
そんなことを話しながら月日は徐々に過ぎていった。
 五月の良く晴れた休日、四人で江戸川のあやめの咲く公園に出かけようと支度をしていた時、新司はまた、はっと胸を打たれたように、乳を遣る智子を見た時と同じようなことを感じる場面に遭遇した。それは板の間で智子が屈んで二人の幼子と目線を合わせてなにか笑顔で話しかけているときだった。子供たちが邪心のない様子でお母さんのほうを向き、それに智子がなんとも優しい笑顔を向けて何か話を続けている。その姿を見たとき、前以上にはっとびっくりするように胸を打たれた。そこには、何かが優しく美しく輝いていた。
 慈母というのはこの時の智子を言うのではなかろうか、そして世の中にこんな美しい光景はまたとないのではないか。新司の胸になにかが満ちてきて、こうやって智子と一緒に生きていることがこの上なく愛おしく思えた。

 新司はそんな中で結婚以来、酒の量が徐々にそしてはっきりと減り続けた。結婚してしばらくは夜通し飲んで深夜か翌朝に返ってくることがあったがそういうこともなくなった。それに反比例するように仕事の量が徐々に増えていった。仕事に精を出す、新司の技術は縦横無尽となって飛躍し続けた、と言っていい。
 どう言ったらいいだろうか、鋭さが際立つばかりに、、、という流れを汲むものと、新たに鋭さの中にも優しさを含んで人をしてじんわりと温かみを感じさせるものが重なるようになり、それが鋭い以前の流れを汲む作品に深みを与えるようだった。人に対する優しさが加わって、優美にしかも持つ人、見る人をして鋭さだけでなく、ほっとさせたり、朗らかな気分を催させたり、どうかすると悲しいことがあり沈み込んだ人間を優しく励ましでもするような情すら感じさせるものに昇華していった。
 それにそれなりに求めるお客がついたものだから、自然家計に余裕が生まれていくことになった。銀行勤めをしていたことから帳簿付けをしていた智子にはそのことがすぐにわかり、それでも使う方は夫婦ともに勤倹で以前と変わりない生活のため箪笥の中や最近決済のために始めた銀行の口座の額も少しづつ増えていた。
 自分でも不思議なのだが、仕事は自分の職人としての腕前、気障な言い方をすれば芸術性の表現というような突き詰めた気分の中でやっていたものが、人に持ってもらい使ってもらって喜んでもらうことに、かえって喜びを感じるというようなものに変わっていった。それは智子から受ける豊かでひろく美しい心、それがそのような仕事へと新司を誘い続けているからに違いなかった。
「モノをいろんな形に工夫できるように新しい機械を買いたいんだけど、、、。結構な値段がするものなんだ。お客さんに喜んでもらえるように考えたんだけどまだ貯えもそんなにあるわけではないし、まだ難しいのかもしれない、、、。」
「そうねえ、でも独り立ちしたころから考えるとかなりまとまった貯金になってきているわよ。慥かに結構な貯えとは言えないかもしれないけれど、、、。でもその機械の価格にもよると思うんですけど、意外に早く買えるかもしれないわ。帳簿を見ると毎月のやりくりには余裕があるわ。」
「そうかい、実は商工会から紹介されてある会社に問い合わせてみたら、僕が思っていた機械を作ってくれそうなんだ。それでよく話してみると払いは五年の分割払いでもいいっていうんだけど、、、、」
と言って書類を見せると、
「ちょっと待って。」
 智子は帳簿を取りに行き、戻ってきて、
「これみてくれる?ここを見ると月々の収入と支出、うちは家業でやっていますけど、お会計的に考えるときは会社として考える方がいいと思ってそうしたんだけど、ここにお家の給与収入としてみたものがあるでしょ。
で、ここが月々の余剰金で、一年でみたときのことはここに書いてあるの。それを独り立ちしたころからの五年くらいの経緯を図にしてみたのがあるんだけど、、、、。」
「なるほど、時々見せてもらうものだけど、いつもわかりやすいね。この図は初めて見るけど、、、。」
「そうなのよ、ちょっとこの間作ってみたのよ。これと、機械を買ったとして返済しなきゃいけない額を見比べて考えてみたらいいかなあ、と思うんですけど。」
「なるほど、そういうことだね。ええっと、、、、
そうかあ、もう少し貯金があった方がいいねえ、、、。その機械は新しい工夫を取り入れるためのもので、数をたくさん作ったり、安く作れたりするものじゃないからなあ、、、。」
「あら、あなた、意外と慎重ね。慥かに少し足りないように見えるかもしれませんけど、帳簿上は機械は資産にあたるでしょ、だからそれが役に立っている限り見た目感じる損得より成り立つものだと思うの。だからあなたがやりたいことなら、あたしは思い切って買った方がいいように思うわ。」
「そうかなあ?」
「?、、、あなた、どうしてもほしいんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど。」
「なら、買った方がいいわ。もし、もしもよ、役に立たなくて失敗したとします。だとしてもこのくらいの額なら頑張れば返せる額だと思うの。その時はいい勉強させてもらったと思えばいいじゃない?先のことなんて誰にもわからないわ、あなたがお客さんに喜んでもらえると思ってどうしてもやりたいことなら思い切ってもいいんじゃない?
あたしもそのほうが頑張りがいがあるわ、、、、」
「ありがとう、、、、、」
一瞬新司は何かがのどにこみ上げて来たが、
「智子には負けるね。わかった、そうだね、、、、、思い切ろうか。うん、うん、、、、
どうもありがとう。そうしよう。」
 新司は、改めて気付いたのだが、智子と一緒になりここまでやってきて、復員してしばらく棘が突き刺さったようにあった世間への違和感は消え、胸のつかえはいつの間にか小さくなっていた。そして新たな勇気が湧いてくるように感じた。

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