今村大将の「大東亜戦敗戦の反省」/幽囚回顧録でカットされている部分が『祖国愛』に掲載されています。
今村大将の「大東亜戦敗戦の反省」については、「幽囚回顧録」の中公文庫、秋田書店版ともに同じ内容が掲載されています。これは先の記事でご紹介しました。
これは、昭和41(1966)年2月15日発行の秋田書店版を中公文庫が底本としているためだろうと思います。
昭和42(1967)年9月15日発行の「祖国愛」(甲陽書房)にも敗戦の原因として同趣旨の記事が掲載されていますが、「幽囚回顧録」にない、第6の原因と追加記載があります。
これについて、今回記載しておきます。
五つ(六つ)の大原因の記載
「幽囚回顧録」(秋田書店、中公文庫)では、
1)大権の侵犯
2)陸海軍の対立
3)作戦可能の限度
4)精神主義の偏重
5)戦陣訓の反省(先の私の記事では、分かり易さのため「祖国愛」中で使われている「軍隊の慈悲心の欠如」とさせていただきました)
「祖国愛」(甲陽書房)では、
1)軍首脳部の固陋頑迷
2)陸海軍の対立拮抗
3)作戦戦の限界無視
4)行き過ぎた精神主義の偏重
5)軍隊の慈悲心の欠如
6)解読されていた日本の暗号
となっています。前者では1)の大権の侵犯だけが主張強度が強いですが、全体には後者の方が分かり易く表現されています。
「祖国愛」(甲陽書房)中の追加記載
また、「祖国愛」中には、「幽囚回顧録」にない追加記載があります。
第一は、解読されていた日本の暗号 です。
陸海軍、外務省の暗号がほとんどが解読されていたとしています。これは戦後直後から外務省、海軍の暗号はほぼ完全に解読されていたと言われていました。典型的には、ミッドウェイ海戦は米軍暗号解読の勝利です。また、以前に記しましたが、今村さん自身が海軍機でラバウルからブーゲンビルへ向かう途中米戦闘機に狙われすんでのところで雲隠れで逃れたのも、山本五十六がその直後に米軍機墜落させられ戦死したものも海軍暗号が解読されていたためです。
外務省については、そもそも宣戦布告書を遅刻したという事件のときも既に米首脳部は暗号解読して知っていたということが有名なものです。
一方、陸軍暗号については、解読されていたのかという点は未だに確定していないと言われています。陸軍暗号は非常に手の込んだ自分たちにとっても解読作業に大きな負荷がかかっていたと今村さん自身もどこかで書いていました(出所思い出せません)。
また、陸海軍と外務省がそれぞれ垣根を張ってノウハウを共有したり、協力したりということなく勝手にやっていたと批判的に書いています。これも本当に残念なことでした。
第二は、雄々しく強く戦った日本軍将兵に対する記述です。
代表的に、昭和18(1943)年5月のアッツ島の闘いに関する日米の参考文献引用、昭和20(1945)2月から3月の硫黄島の闘いに関する日米の参考文献引用の両引用をして、敗戦の大原因は主に軍上層部の責任であり、第一線の日本軍が如何に雄々しく強く戦ったかを語り、主張の平衡を取っているもののように思えます。
この二つの書物における記載の相違は、おそらく僅かな出版の時間的差異の中で今村さん自身が追記したということではなく、編集者によるものといえるのではないかと思います。というのは10年近く以前に原版「祖国愛」が出版されており、防衛庁関係者へ今村さんが講演などで内容を既に語っていると推量されるからです。
アッツ島の闘いは、北のアリューシャン列島の日本占領地を米軍が奪回した戦いですが、大東亜戦最初の日本軍の玉砕と言われています。山崎保代隊長が、水際作戦ではなくのちの硫黄島などで大きく米軍に犠牲を強いた地下陣地で行った抗戦です。非常に多く米軍に犠牲を強いた戦いだったことが米軍資料に明瞭に表れています。
硫黄島の闘いは、大東亜戦中自軍に対する米軍犠牲者数が最も大きかったと言われる壮絶な戦いです。栗林将軍以下の将兵が文字通り精魂込めて戦ったものです。時は昭和20(1945)年2月、首都の学童が疎開に向かっている最中の闘いで一日硫黄島の米軍占領が延びればそれだけ疎開学童が助かるということを将兵全員が認識して戦い抜いたと言われています。
今村さんの意図を汲むなら「祖国愛」(甲陽書房)の記載をしてほしい
今村さんとしては、大東亜戦の敗戦の責任は多く自分にもあり、上層部にいた責任から「敗戦の大原因」を後世のためにこそ振り絞りだしたものだったと思います。
しかし、それだけでは平衡を失し、如何に第一線の日本軍将兵が精魂尽くして雄々しくしかも強く戦ったのかを述べておかなくてはならないという思いがあったのだと思います。
「幽囚回顧録」(中公文庫)がもし、今後改訂を加える余地があるのなら、是非「祖国愛」(甲陽書房)にある追加記載を入れていただきたいと思います。