「三十五年越し エピローグ16」/美智子さんの近代については、フィクションで書くことにしたいと思います。
美智子さんの近代について小説形式としたいと思います
この2,3回のこのマガジンで書いてきました美智子さんの近代について、それなりにわかってきたことも多く、どのような形式で書いたらよいのかについて、いろいろと考えてきました。
私にとっては、還暦を迎え、第二の青春とも思っている今現在の課題として、美智子さんの近代の意味を捉えられたらという気持ちが強くあります。
いずれ多くを費やすことでリアルなエッセイの形であっても過不足なく真実に迫れるのではないかとも思いましたが、私の筆力から推して彼女への配慮が足りずこの上不快の上塗りのようなものを書いてしまう可能性を恐れるよりは、一旦フィクションとした方がいっそのことさっぱりとしていると考え、小説という形式をとってみようと思います。
その方が大胆な仮説も可能になり、面白みもあるかと思っています。
もともと、折々に記載しているように「田中美智子」は仮名です。小説でもそのまま使用させていただくことにします。
新たな小説とは言え、「三十五年越し」のなかのネタなので本マガジン中に連載するようにします。
題名などは現在検討中です。
人はいくつになっても恋をしていたい、ときめいていたい
還暦になって自分よりかなり上であるはずの高齢者といえどもそうに違いないということがわかってきて、一層切実にそう思います。
それはやはり希望なのだ、と思います。
人間は希望なくして生きていくことはできません。
どんなに老いても、こんなお爺さんがと思われるようなよぼよぼのお爺さんやおばあさんでも希望が必要です。
そう、恋は希望と不可分なのでしょう。
そういうことを幾分かでも書くことが出来たらと思っています。