「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その1
「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に紹介したいと思います。
以前にもいくつか乃木大将と今村大将とのかかわりについて、別の視点からの記事で触れたことが有りますが、改めてここでまとめてみたいと思います。
「今村均回顧録」を中心に、時代順に以下並べてみます。
1)明治45(1912)年9月乃木大将殉死
今村大将が中尉のとき、練兵中に従兵須藤一等兵に乃木大将殉死の報を知らされます。
2)大正5年ころ/今村さん、銀子夫人と結婚。
金沢在の岳父の千田登文は西南戦争時の乃木連隊長の連隊旗手を務めて以来、乃木さんは兄弟とも言える仲であり、上京のたび今村家を訪れ乃木さんの思い出話を語ったことが「今村均回顧録」に記されています。
3)大正十二(1923)年から三年ほどの間、上原元帥副官となる。
陸軍大学を首席卒業後ほどなく英国へ留学した今村さんは帰国後、陸軍中央の仕事の傍ら、上原勇作元帥副官となります。それは今村さんが少佐のときでしたが、陸大教官の谷寿夫大佐が副官の今村さんを通して「機密日露戦史」の執筆を目的に上原元帥に日露戦中のことを訊き質しに来ました。またそのとき、今村さんを通して乃木大将の旅順戦のことを訊いてもらったことがあります。
4)昭和14(1939)年初めの南寧戦時。
第五師団の部下の堀毛砲兵連隊長が部下が大砲三門を敵に逸したことに責任を感じ、攻勢作戦の前の段階で部下とともに突出し奪回しようと申告にきます。そのとき今村さんは師団長として、乃木将軍の連隊旗消失事件のことを引き合いにし軍命令の通り攻勢作戦時の健闘を約束させます。
5)昭和二十(1945)年8月ラバウルでの終戦の詔勅を受けて。
ラバウルで今村大将方面軍司令官は、終戦の詔勅を部下直轄部隊長に通達します。通達後、部隊長らに別盃を挙げる食堂での会合で、軍中詩吟の練達者梅岡令一伍長に乃木将軍作の「山川草木転た荒涼」の漢詩を詩吟してもらいます。
6)昭和四十二(1967)年七月十四日付読売新聞に寄稿。
司馬遼太郎が「坂の上の雲」執筆前、「要塞」という旅順戦を書いた作品がありますが、今村さんはこれに対して批判する形で読売新聞に寄稿し「寸感『乃木将軍は無能ではない』」との論文を残しておられます。
7)昭和四十三(1968)年「乃木大将と辻占(つじうら)売りの少年」を揮毫。
乃木神社の隣りに残る旧乃木邸跡に、「乃木大将と辻占(つじうら)売りの少年」の銅像があります。この銅像の前のプレートを「乃木大将と辻占(つじうら)売りの少年」と揮毫したのは今村さんだということです。そしてそれは今村さんが亡くなる直前で、この書が今村さんの絶筆だと言われております。
以下、その2以降で1)から7)までのそれぞれについて記してみたいと思います。ちなみに7)以外は「今村均回顧録」からの引用です。