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「西郷さん、乃木さん、今村さんを繫ぐのは、今村さんの岳父の千田登文翁」
西郷隆盛に関する著作、報道等の記事は、日本では断続的に途切れることなく顕れてきます。
本日は、下記のような記事を目にしました。
同じように、乃木希典に関する記事についても途切れることなく著わされています。
私は、今村均陸軍大将についても、全く同じように今後数世紀に亘って、著わされるものと思っていますし、この私のコラムがその一端を担いたいとも念願しています。
そして、西郷さん乃木さんを繫ぐ線については既に記した記事があります。
まだ書くべきことが有りますが、それは後日に期したいと思っています。
西郷さんと登文翁
今日ここで記事にした観点は、西郷さん乃木さん今村さんを繫ぐ線についてです。そこには、今村さんの岳父にあたる千田登文翁がいるのです。
冒頭挙げた、西郷さんの記事中に記載があるように、
西南戦争で埋もれて隠されていた西郷の首級を発見したのが、
千田登文陸軍少尉(従兵の前田一等兵とともに)(いずれも当時)でした。
ただ翁は、聞かれれば死ぬまで首級発見は前田一等兵であったと言い続けたそうです。
回顧録中の登文翁のくだり
千田登文翁との交流を『今村均回顧録』では、一項目を設けて「千田登文翁」として記されています。翁の三女銀子(昭和二年に逝去)さんが今村さんの奥様です。
この「千田登文翁」は、私が最も好きなくだりの一つです。
今村さん自身も語っておられるように、自分の子供たちがこの岳父の血をうけていることを喜びとしていました。その喜び、そして翁への愛惜が伝わってくるのです。
銀子さんを亡くされたとき、奥様への情が薄かったことを痛切に悔いている『回顧録』中のくだり(「妻の死」)がありますが、銀子さんもお父様である登文翁が上京の折々に今村家を訪れ思い出話を語っていたというそのとき、心から仕合せな時間を過ごされたのだろうと推察しています。
乃木さんと登文翁
『回顧録』のくだりには、乃木さんと翁との濃厚な関係を翁が自ら語る形で記されています。
これも西南戦争の折、乃木さんはあの有名な軍旗消失事件に遭遇し文字通り意気消沈しますが、そのときに斃れた河原林旗手少尉の交代要員として配属されたのが、千田登文旗手少尉だったのです。
当初、千田少尉は乃木さんを自決させてあげようと思いますが、接しているうちに乃木さんの人格がわかるにしたがい、このかたは是非とも生かしておかなけりゃならんと決意し、陰に日に乃木さんを励まし、勇気づけたということです。乃木さんにもそのまごころが通じたのでしょう、兄弟のような間柄になったということです。
日露戦争のまえに、北陸に新師団創設の動きがあったときにも、この兄弟愛にも似た友情が、登文翁の地元の金沢への師団創設の決め手となります。
福井か金沢かと言われた新師団だったのですが、乃木中将自ら実地検分にくるということで旧金沢百万石の重臣が先んじられた福井に師団をとられると騒ぎだし、翁を担ぎ出しますが、翁はそのような利益誘導をきっぱりと断ります。
しかし翁は、お忍びで来られた乃木将軍の宿を訪れ、旧交を温めると同時に、師団である以上給水の十分にある土地柄がベターであるとの正論を乃木さんに述べ、結果的に福井に決まりかけていた師団を金沢に取り戻すことになりました。
このように一本気な翁を、石川県民は「今彦左」(彦左とはもちろん、大久保彦左衛門のこと)と呼び、敬愛し続けたと言います。
そして、今村さんの、その岳父に寄せる敬慕の情が『回顧録』の「千田登文翁」には溢れていていつも読むたびに瞼を熱くさせられます。
西郷さん、乃木さん、今村さんを繫ぐ千田登文翁
このように、千田翁を介して、西郷さん乃木さん今村さんが線で結ばれていることが感じられます。
『回顧録』を読むたびに思うのは、
この線が、日本の続く限り語り継いでいってもらいたいと思うのは私だけではないのだろうということです。
この線は、日本のこころが繫ぐ線と言っても良いと思います。
是非、一度『今村均回顧録』を読んでいただき、三者が繋がっているんだということを感じていただければと思っております。