「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文芸春秋)エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳
もう読んだ人もいらっしゃると思いますが、エマニュエル・トッド氏の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文芸春秋)についてご紹介したい。
氏については、既に何度か本コラムでも紹介している。
例えば
フランスの歴史人口学者・家族人類学者である、エマニュエル・トッドが、一般読者向けに、渾身の文明論を世界に発信した著作と言うべき書が、「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」だと思う。
これまでも文春やその新書、ときにはPHP新書などでその文明諭や地政学所見を自らの家族人類学的知識をベースに広く世界に発信してきたエマニュエル・トッド氏だが、今回、その重厚さにおいてこれまでになく、今最も求められている形でその文明論的認識を披歴してきたということだろう。
そこに、今の世界に対する危機意識が漲っているところが、並みの文明論と趣を異にする本書の一大特徴である。
私自身、これまで日本で出たエマニュエル・トッド氏の新書はもれなく読んできてある程度氏の見識や考え方を理解しているつもりだが、今回の書は専門的学問的な基盤ごと、しかも一般読者に分かり易い形で、その認識や考え方を提示してくれている点で、その重厚さは、近年の出版物の中でもピカイチのものではなかろうかとすら愚考する。
上巻の副題「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」は、
歴史的宗教的また氏の専門の家族人類学的考察によって、また網羅的な議論を通す形の中で、原初のホモサピエンスに近い未分化性によって、民族或いは国家単位での融通無碍性による進化適応性が、アングロサクソンにはあった、それによって覇権獲得を可能ならしめた、というスジを展開している。
家族、教育という基底的流れと、組織、集団から政治経済という世俗的流れがフィードバックし合いながら、文明競争が起きている。
その具体的、歴史的な記述が、これまでになく、脳に刺激的である。
下巻の副題「民主主義の野蛮な起源」は、
上巻を踏まえて、下巻では現在の人類的課題に対する考察が記されている。
現今のグローバリズム、グローバル経済が人類を斯くまで棄損していることを、根本から憂いているエリートは本当に数少ない。
大学以上の高等教育が、自由と民主主義の必然として起こったことが、パラドキシカルに階級化、階層化を止むことなく促進していること、これが現今の人類的課題であることが良くわかる。
先進国エリートの大半が自らの高等教育履歴を所与のものと勘違いし、「自由市場の雇用不安定が緊縮経済による所得の収縮に加われば、必ず出生率が押し下げられるという(基本的)メカニズムを考慮しない」との言は、大学がリベラルアーツを等閑にし、精神の自由を与えるどころか、逆に階層化を促進するすざまじいマシーンであるとの猛烈な批判である。
大学は、口では平等を言い募るが、実行しているのは階級化、階層化なのである。アカデミアにいる人々を少しは自省、内省してみられよ!
さく裂する文明批判を、自己の問題として読んでいただきたい。
特に、自己の存在について深く悩むことなく、上っ面の経済論や政治論、仕事論を展開してはばかることの無い、エリートずらした人間たちにこそ。
本日は、かなり辛口でしたが、ご寛容のほどお願い申し上げます。