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「日露戦争旅順攻防戦ー追記/司馬遼太郎史観に騙されないで」

日露戦争旅順攻防戦-追記の理由

以前に、下記の記事について記述しました。一応旅順攻防戦の要諦については書いたのかな、と思っていました。

しかし、この連休で改めて、「乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す」桑原嶽/PHP新書 を読み直してみて203高地戦に関して記しておかなければならないと思い直しましたので、今回追記します。

203高地戦、その戦略的意味

203高地戦の意味については、文末に記した複数の参考文献から見た時、旅順攻略戦における、日本軍による露軍戦力の消耗を強いた、ということだと思います。

もちろん、露軍極東海軍戦力の殲滅、という点は無視することはできないのですが、実際には露軍極東海軍戦力は実質的にその前に無力化していたということであり、日本海軍に優れた諜報能力があれば見抜けていたことです。

旅順攻略の日露戦における目的は、露軍海軍戦力の殲滅はあるものの、もっと大きなこととして、旅順露軍戦力全体を無力化するということです。
そうでなければ、乃木第三軍が旅順包囲を続けねばならず、満州での日露会戦で日本軍の兵力過少で敗戦となるのは必至でした。翌年2月末から始まる日露の雌雄を決する奉天会戦は乃木第三軍を加えた戦力で戦わなければならなかったわけです。

その意味で、11月末からの203高地戦で203高地を奪取したのみならずこの戦いで露軍戦力を大いに消耗させたということが大きな意味を持っていたのです。
すなわち、203高地戦は、露軍戦力を大きく消耗させ、その後の旅順東北方面の攻略が格段に加速されることになり、旅順開城(戦力無力化)を早めたということなのです。

第1回(8月)、第二回総攻撃(10月)後、11月下旬の第三回総攻撃が不調に終わってすぐの203高地戦

さて、203高地戦の時期ですが、旅順攻略戦の中では後半戦に行われています。日本国内に残る大本営は攻略戦の途中から海軍の203高地攻略要請が激しくなります。
それは、露軍バルチック艦隊がロシアリバウ港を出発し極東戦線に参戦することになったからです。バルチック艦隊が来る前に旅順露軍極東艦隊を殲滅しておかなければ日本海軍としては戦力上大きく不利になり勝利の見通しが立たないからでした。

しかしそのような状況であっても、攻略の目的である旅順要塞陥落を完了しなければ第三軍の意味はないわけで、そのために東北方面の永久堡塁奪取による旅順攻略を第三軍及び満洲総軍は継続します。これは正しい戦略です。

第一次総攻撃(8月)後、その正しい攻略戦略をただちに攻撃路掘削による正攻法に切り替え第二次総攻撃(10月)、第三次総攻撃(11月)を続けますが、べトンで固めた永久堡塁と露軍将兵の防御戦闘力はすさまじく、一つ一つ落としていく堡塁の数は増えていくもののキモとなる永久4堡塁は落ちません。

203高地戦の旅順攻略戦における意味

しかし、第三次総攻撃後すぐのことです。乃木大将は203高地攻略を決断します。
第三次総攻撃の不調が明らかになったとき、乃木大将は203高地方面に展開する第一師団に203高地攻略の是非を打診します。すると直ちに、以前から203高地攻略を主張していた第一師団参謀長の星野金吾大佐がは、「いままでの(東北方面の)攻撃は、203高地攻撃のため強大な牽制を行ったことにように見える。いまから203高地を攻撃すれば、成功の見込みは充分にある。重砲の準備が整えば、第一師団はただちに突撃を敢行したい」と即答しました。
これを踏まえ、乃木大将が203高地攻略を決断するのです。

まさにこの判断が日露戦争勝利への決断になりました。

乃木大将は、旅順攻略の如何にすべきか、を四六時中考え続ける中で、永久堡塁の堅固の中でも少しづつ消耗する露軍戦力をさらに一挙に消耗させる決戦場所を203高地に見出したと思われるのです。203高地は東北方面主攻要塞の永久堡塁ではなく、強化野戦陣地という程度のもので28センチ榴弾砲でかなりダメージを与えることができます。であればこそ砲兵による準備攻撃の後の歩兵攻撃で対等の闘い、両軍の決戦が期待できたということなのです。
そして、結果として、この203高地戦は両軍の熾烈な攻防が八昼夜にわたった末に、両軍の大きな大きな消耗の上に12/5最終的に日本軍の手に落ちるわけです。
日本軍の方は旭川第七師団の第三軍加入などの戦力補充があるのに対して、この戦いにおいて露軍は文字通り大消耗となり、その後の12月上旬から始まる坑道作戦による日本軍主攻東北方面の永久堡塁の陥落が早まるわけです。

このことは、下記参考文献の筆頭に挙げた「名将 乃木希典」で桑原嶽さんが喝破するところですが、わたしもまさにその通りと思います。
つまり、この時点の203高地戦が旅順における日露の闘いの帰趨を決定したということになります。

以上、203高地戦に関する記事を以前の「日露戦争旅順攻防戦/司馬遼太郎史観に騙されないで」に追記し、第三軍将兵の顕彰の一つとして付け加えさせていただきたいと思います。










以下、参考文献

(上記は、第一掲載の「名将 乃木希典」のリバイバル刊行に当たります)


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