「小説 雨と水玉(仮題)(17)」/美智子さんの近代 ”それからの月日と一瞬の再会”
(17)それからの月日と一瞬の再会
美智子はまだ恋をする気に成れないでいた。
A書店に就職して半年以上が立ち、好意を示してくれる男性がいないではなかった。
ただもともとすぐに人を好きになる性質でなく、仕事に集中しているうちに立ち消えていた。
あれから一年以上経ったけれどまだ啓一とのことが引っ掛かっていたのかもしれない。解きほぐさないとすっきりしないものがあったのも事実である。
入社して三か月は京都、大阪、神戸のお店での実地研修だった。制服を着てお店に出てレジ、在庫管理それに伝票整理といった一通りの仕事を覚え、関西各支店の従業員に名前を覚えてもらうということが第一の目的だった。
慣れないことも多かったけれど、覚えることだと思って先輩に訊いたり、指示を仰いだりしながら一つ一つ把握していった。
七月には大阪梅田店の文藝部に配属になった。
配属されて間もない日の午後、
「君、見慣れん顔やなあ、新人さんかいな。
あのな、知ってるかわからんけども、甲出版の『○○△』という新刊は出たかなあ?」
と五十代と思しき初老の男が美智子を店員とわかって話しかけてきた。
「はい、少々お待ちいただいてよろしいですか。」
「うん、ええよ。」
美智子はすぐ、最近入ったという店舗端末係のところで問い合わせ、戻るとその初老の男の人は姿が見えなかった。しばらく探したが見当たらず諦めざるを得なかった。
用事でオフィスに戻り、こういうことが有ったと三年先輩の好美に言うと、
「ふ、ふ、ふ(笑)。
T先生に揶揄われたんやわ、田中さん。業界でも有名なK大学の教授の先生よ。
よく新人さんが配属されるとそうやって揶揄いに来たりしやはるの。
気にせんといたらいいわ。」
「そうですか、なんやようわかりませんねえ。」
仕事を終え、阪急梅田駅で各駅停車に乗ろうとする美智子の目に、件のT先生の姿が飛び込んできた。ハッとして、どうしようかと迷ったが、若さの勢いで、
「あのお、お隣に座ってもよろしいでしょうか?」
と言ってみた。
「ああ」
とT先生は言って、少し美智子を眺めて、
「この間の、A書店の新人さんかいな。ええよ。」
しばらく様子を伺ったが先般の事情が知りたくなり、
「あのお、T先生でよろしいでしょうか?
あのお、この間、お探しの甲出版の本、そういう本は有りませんでした。」
「そうかあ、
ありがとう。君、案外真面目やな。ええことや、
君がわざわざこの爺さんに声を掛けてくれたんで言うとくけども、
僕が訊いてみたのはな、
甲出版がA書店の文藝部には三カ月先までの新刊情報を入れてるはずや、
君の名札に文藝部とあったのでな、来月入ってくる「○○△」のことを知ってるか、と思て訊いてみたんや。」
「あ、そうでしたか、すみません、不勉強で。
今後気を付けます。」
「まあ、君の場合、僕が書名を言うて、聞き返さずに覚えて戻ったところはまずまずや。せいぜいこれから気張りなさいや。」
「ありがとうございます。」
「ところで君、学生の時はどこの先生のところやったんかな?」
「はい、KJ女子大の高坂先生のところで勉強しました。」
「それはいいところで勉強したな。僕はよく知ってるよ、高坂さん。今度高坂さんに会うたら、宜しゅう言うといてな。」
「はい、わかりました。
あの先生、私、曽根で降りますんでここで失礼します。
どうもありがとうございました。」
「うん」
その後、何度かこうやって会うことになり、思わぬ助言を受けることになるT先生との関係がこの時始まった。
それからしばらくしての師走十二月、美智子は大学卒業後久しぶりでH大サークルの忘年会に来ないかと誘われ、梅田の居酒屋へ足を運んでみた。
就職したばかりの人たちと近況を話すことは似たような経験をしているせいか、気持ちが楽になっていくようだった。
しばらくすると一年半ぶりで見る啓一が来たことに気付いた。同期のOさんと一緒に来て楽しそうに話をしていた。美智子は場所が少し離れていたのでよくわからなかったが、スーツ姿で一層大人びて見えた。
しばらくして、啓一が美智子らの集団のところに来て、
「やあ皆さん、しばらく。元気そうやね。
今日、ぼく、東京に戻らないと行かんのでこれで失礼するけど、またどこかで会いましょ。」
「佐藤さん、東京に転勤したんですか?」
と誰かが言うと、
「いや、会社を変わってね。いま東京に勤めてるんやわ。
東京に来るようなことがあったら、声かけてくれたら飲みは付き合うよ、ハ、ハ、ハ(笑)」
と言って、美智子にも会釈して行った。
美智子は話しかけたい気持ちがあったけれど、胸につかえるようで言葉が出なかった。
そそくさと啓一は帰っていった。
美智子は、胸の中でなにかが留まりゆっくり動いていることに気付いた。
なぜ?なんで話しかけてくれへんのですか?
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