徒然物語29 止まらないこの世界で…
身悶えする様な頭痛に、たまらず電柱に寄りかかった。
飲みすぎたな…家はもうすぐなのに。
そのままうずくまり、襲い来る吐き気との戦いが始まる。
クソ上司め…さんざん言いやがって。今に見ていろ…
「君は視野が低い。」
天敵である営業チーフが、おれを見上げてそう言った。
おれは直立不動、チーフは椅子に深々と腰かけている。
「もっと視座を高く。鳥の目ってわかるか?全体を俯瞰するというか…君は細部にこだわるあまり、大局的な視点が備わっていないんだよな。何につけても。」
今日も長い説教を食らった。
視野が低い。細部にこだわりすぎて仕事が遅い。
そのくせ肝心なポイントは抑えられていない…
どうやら目の敵にされているようで、自分では改善しているつもりでも、チーフにしてみたら、おれの仕事は大甘らしい。
あまりのストレスに耐えかねて、一人で居酒屋に駆け込んだのだった。
二軒目あたりから記憶が薄れていく。
どれだけ飲んだのか自分でも判然としないまま帰路につき、気付けば自宅までわずか数十mのところで、うずくまってしまったのだ。
「くそっ明日なんて来なければいいのに…いっそこのまま時間が止まれば…」
半べそになりながら、そうつぶやいたところで、視界を黒い幕が覆っていった。
「これ、起きんか。こんなところで寝っ転がりおって。風邪ひくぞい。」
しゃがれた声が頭上で響き、我に返った。
しまった。寝てしまった。どれくらい寝ていたんだ?ここは…今は…
鈍い頭痛と吐き気に耐えながら、なんとか状況を整理する。
そして、投げかけられた声の主を見上げ、思わず冷や汗が出る。
目の前に立っていたのは、杖を突いた、小さな老人だった。
白い髭を好き放題伸ばし、布切れと呼ぶにふさわしいボロ布をまとった姿は、よく言えば仙人、悪く言えばホームレスのそれを思わせた。
「なんじゃい。ホームレスとは、失礼な奴じゃな。」
ええっ!?おれ今しゃべったっけ!?
「しゃべらなくてもわかるんじゃよ。なぜなら、わしは神じゃからの。」
そう言って、自称神はにやりと笑う。
神…?は?なんだ、このじいさん…
まだ、半信半疑なうえ、頭痛と吐き気で身動きが取れない状況である。
男は荒い息遣いで自称神を見上げることしかできなかった。
「ま、いいわい。わしは時間を司る神じゃ。お前さんが時間を止めたいと願ったからここに現れたというわけじゃ。ほれ、もう一度時よ止まれと願ってみい。わしがその通りにしてやるから。」
???
男は、まだ理解ができない。
この変質者、何を言っているんだ?時間を止める?そんこと、できるわけないのに…
「次は変質者呼ばわりかい。全く近頃の中年は、礼儀がなっとらんな。ほれ、はよ願わんと消えちまうぞい。」
変質者まで言い当てやがった…こいつ、本当に神なのか?
まあ、神でも何でもいいや、この世界を止められるもんなら、止めてみろってんだ!
男は頭痛と吐き気を押さえつけ、半ばやけくそとばかりに、にやりと笑って口を開いた。
「神様か何だか知らないけど、できるもんなら、やってみな。神様、時を…」
刹那、男の脳裏を思考が駆け巡る。
待てよ、もし、人間だけ時が止まるとしたら、どうなる?火とかつきっぱなしだと、火事が起きないか?運転中の車や電車は暴走しないか?飛行機は?
ジャンプしている人間はどうなる?空中で停止するのか?地面に叩きつけられるのか?
そもそも、おれだけは動けるのか?
などと考え出すと、二の句が告げられなくなってしまった。
「…やれやれ。お前さんはという奴は、本っ当にどうでもいい、細かいことにこだわりすぎじゃ。じゃから決断が遅いのじゃ。」
自称神はあきれ返ったように吐き捨てた。
「時間切れじゃ。わしゃせっかちじゃから、もう消える。お前さんはまたとない機会を棒に振ったな。」
「あっちょっ…」
男が制止しようとした瞬間、「じゃあの」と言って自称神は消えた。
そんな…おれの願いは?待ってくれよ…
「待って…」
そう言った瞬間、男ははっと目が覚めた。
どうやら電柱を背に、随分眠りこけていたようだ。体の節々が痛い。
頭痛と吐き気はいよいよひどくなってきた。
神は…
男は今までの出来事に半信半疑ながらも、周囲を見渡した。
もちろん回りには誰もおらず、街灯の光だけが、男の周囲をぼうと照らしていた。