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結婚前は希望に満ちていた
34歳の時に私はNYでクリスチャンになった。 クリスチャンになって当時付き合っていた夫も同じ神様を信じて、私たちの未来は・・・神様の私たちへのご計画はどんなものなのだろう!とワクワクしていた。
私は元々は集英社で少女漫画家をしていたが、27歳でそれをやめ31歳にNYに渡った。 しかし再びケリー篠沢として漫画を出版することになり、結婚後私の描いた漫画は世界中の人に読まれるようになった。
今でも日本中の教会で私の漫画を見かける。 それはとても感謝なことで、奇跡としか言いようがない素敵なことだった。
しかし、その漫画制作の途中で次男が乳幼児突然死症候群で文字通り突然天に召され、それでも歯を食いしばって私は漫画を描き続けていた。
夫はそんな私に献身的で漫画を描くサポートを全力で支えてくれた。
私は彼に本当に助けられていたし、私よりも5歳も若く体の丈夫だった彼はこれからも私の側にいる頼もしい存在として疑いもしなかった。
きっと私たちは仲良しおじーちゃん、おばーちゃんになれる。 長男の子育てが終わって定年退職したら、日本中、いや世界中行きたいところがいっぱいあると夫はいつも話していた。
いつか行こうね、必ず行こう。 イスラエルにも夫婦で行こう。 そう話していた。
そして3年前のどんよりとした夕方の明るいのか暗いのかよくわからない、うっすら暗闇の中にさすオレンジ色の空の下、夫は交通事故に遭って帰らぬ人となった。まだ45歳だった。
いつものように夕食をテーブルに準備して、息子のスケートの練習のため中京大学のリンクに行く前、帰ってくるのが遅いなぁ・・・と思って待っていた時のことをよく覚えている。
私たちの夫婦生活といったらたったの14年間しかなかった。
そのうちの6年は夫は実家高山の家業が忙しく大家族で私も同居だった。
同居生活は楽しいことも沢山あったが、夫婦としてゆっくり過ごす時間はないに等しかった。
次男が亡くなった時、私の頭の中が真っ白になって・・・限界が来て高山を出ることになったので、純粋に家族としてじっくり生活できたのはその後、愛知県での8年間の生活だけだった。
しかしこの8年、初めの2年は次男の死を受け入れられず苦しみ抜いたが、その後は楽しいことが沢山あった。というよりも私たち家族は次男の分も人生を楽しもうと努力した。 苦労は山ほどあったけれど、自分たちで考えて自分たちで決めて行動できる事に自由と開放を感じていた。
今でこそ結婚をすれば親から離れて暮らすことは多いと思うが、高山は昔ながらの伝統を重んじる家庭で、それはそれで良いところもあったのだけれど・・・NYから帰ってきたアーティストの自分にとっては価値観を共有する人もいなく、居場所を見つけられない孤独感があった。
今思えば、もっと自由に初めから夫と二人きりで結婚生活をスタートしたかったと思う。(私はそれを強く望んだが夫は昔ながらの固定概念や、しがらみがあって出来なかった) 若い頃は年をとった後にいくらでも時間はあるのだと信じて自由にならない生活をずっと我慢していた。
今は走り抜けていくしかない時なのだと自分で思い込んで、高山にいる時も愛知にいる時も自分が置かれている場所に感謝を忘れず、仕事に子育てに情熱を燃やして、限界まで頑張っていた。
きっと神様はすごい未来を二人に見せてくれる、そう信じて・・・。
しかし、今思うと、すごい未来ってなんだったんだろうかな。
一人になってしまったけれど一人ですごい未来を見てもつまらないな。
それともすごい未来は忙しすぎる生活の中で すでに起こっていてとっくに通り過ぎてしまったものなのかな。
家族が1番大切でいつも一緒にいた仲良し家族は、あっという間に消えて、もうこの世にはいなくて、一人息子も今は外国に渡り、私はひとりぼっちなった。
岐阜の高山から愛知県は豊田・・・そして、今は南に南にやってきてとうとう海まで出てきてしまった。
この土地で1年前から再び人生をやり直している。