なかわ、やめるってよ
なかわ、言い訳はやめるってよ。
ひとことで要約して言ってしまえば、そんな内容。
10代の未来へと駆け抜けている途中の子や、かっこいいなあと憧れてしまう人というのは、多分そこまでを自分のなかで考えて、
言葉にせずに、思った瞬間、走り出していると思う。
私は残念ながらそんな若さも意気地もなくて、根がねちねちとした人間だから、綺麗に並べた言葉で良いことを言っているように、くどくどと脚色してしまう。
だから、ここから先はくどいだけの繰り返し。
もう答えは最初に書いた。
ただ、お尻に火がつくまで、腰を動かすまで。
心にオイルを注いで、頭に空気でポンプを入れるのを手動なくらいの人間だから、私にとっての景気づけ。
いつかの自分への発破でもあり、くじけた時に読み返す言葉としてという意味でも書いておく。と、いうことにしちゃう。
アナログが好き。透明水彩が好き。と、ずっと生きてきた。
カメラもデジタルよりフィルムタイプで、10代のときに撮影した動物園でのお気に入りのものが数枚部屋に飾ってある。
思えば親の口癖はデジタルカメラに対する悪口だ。
親にとってみればそれは真実だろうし、子ども心の私はそんなものなんだなあと話をそのまま聞いていた。
今思えば、そこでデジタルに対して偏見や抵抗が出来ていたのかもしれないが、まあそれは置いといて。
学生のころ、本やネットで見たミニチュアみたいに撮れる写真が好きだった。写真の中で世界の全部が丸く見えるような写真にドキドキした。
それはトイカメラだし、魚眼レンズだ。親の言葉にならって、大きな重たいフィルムカメラを担いで動物園で写真を撮ったことがある、先程前述したお気に入りの写真がそう。
そのカメラを手にすれば、私は本やネットで見た好きだと思ったドキドキとした写真が撮れると思っていた。
でも結果は散々だ。
フィルムを数個使って、カメラ屋で現像したら1万円くらいした。
学生だった自分は、その値段は計り知れなくて、ショックがさらに大きくなった。
家に帰って、こういう写真が撮りたいと親に言うと、それには専用のレンズが必要だと言われた。
私はそのとき思ったのだ。
アナログだって、道具を使うじゃん!!!と。
絵からアナログに入ると、絵を描くのに必要なのは最低限の紙と鉛筆だけであとはなにもいらない。水と絵具とパレットに筆があれば、もう無敵だ。それだけでいい。そんな気持ちがあったのだ。
簡単に描けて、身近に存在していて、気やすいのがアナログ。
そういう考えでデジタルに比べてお金がかからないと決めかかっていた。
だからお金を割と使うということは、当時の私には割とショックで、これさえあれば全部出来るわけじゃないんだ、ととてもしょんぼりとしたのを覚えている。
まあ、そんな考えは絵から見ても本格的に勉強しだして、望めばきりがないほどに絵というのは金がかかると知っていくのだが。
ちなみにいまの私は元気に、フィルムカメラも二眼のデジタルカメラも使う。この二眼のデジタルカメラはちょっと特殊で四角い筒のような見た目をしている、上から万華鏡のように液晶画面を覗くとトイカメラとか色んなレタッチに切り替えられる。さらに乾電池で動くからどこにでも持っていける。
それに成長して私はひとつ自分の癖を知った。
私は、スクショ魔だ。
とにかく撮る。とにかくソシャゲやウェブ画面も撮る。
道を歩いていても、バシャバシャと写真を撮る。
そんな人間に、無限にフィルムの予備があるからと、フィルムカメラを渡してしまった様子を想像してほしい。
散歩するだけで万札が飛ぶだろう。
そんな割のいい仕事は今の時代存在しない。
デジタルカメラの良いところはとにかくたくさん撮れること。
一瞬の瞬間のために全てを注ぎ込んで撮るからフィルムがいいのだと親に言われたが、私は今思う、外せば一緒だと。
先日花見で、おそらく他人同士のおじさん二人が似た服装と帽子を被って、桜を見上げて同じスマホの持ち方、同じ体勢で桜の写真を撮ろうとしていた。被写体をぼかしたとしても、この写真は保有したいと、私は急いでスマホを用意したが、結果は間に合わなかった。
おじさん二人との出会いは本当に一瞬で一期一会だった。あの瞬間が保存できる形があれば、どんなものだって当時の笑いをいつだって思い出すことが出来るだろう。
しばらくして友人からも花見に行ったと花の写真を数種類もらった。それぞれ撮る人によって写真は個性が出るからとても面白いと思う。その数種類の中に、とても綺麗な八重桜にピントを合わせたその後ろで、ぼやけたおっさんがはっきり写っているのだ。
どうしても自分にはこれがじわじわと笑いが込み上げておかしく。
友人に許可を得て『おじさんと郷愁の八重桜』と名付けた。
その写真は何度見返しても、友人らしい個性の光る写真だし、私は見るたびに楽しい気持ちになる。
さて、絵の話だ。
最初に言った通りで、私はアナログの透明水彩をメインに、デジタル絵も練習していた。もっと言えば最近になってデッサン教室に通い始めたし、たまに粘土で作品も作る。
私に絵を教えてくれている先生も多趣味で、ラジオ無線が趣味でハンダ付けが得意だったり、バイクが好きだったり、音楽が好き。いろんな趣味がある。
それ全て内包して今の先生が出来上がっていると思っている。
私はカメラの件でもあったように、ずっとデジタルは敬遠していた。
だけれど、ある日友人が体調不良で動けない私を心配して板タブレットをプレゼントしてくれた。高価な品だ、いただいたからには上達したいと、最初はリンゴを描いた。一週間リンゴを毎日描いていたが、見る人見る人言うのだ。
「なかわらしい絵だ」と。
私は自分を出せるのは、透明水彩だと決めにかかっていた。
デジタルはあくまで腰掛けで、本調子でも本意でもないと。
けど、それは色んなことに挑戦して可能性を広げてほしいと、そして私の体調を考慮して手が動けば寝たままでも描ける、手が震えるならば手ブレ補正が出来る、鉛筆に慣れているからと傾斜対応と私に合うものを選んでくれた友人に対して、あまりに不誠実で、格好が悪い。
最近描くデジタルの絵もどれも私らしいと言われ、私、独特の塗り方や色彩表現があって、それを周りの人は見るとわかるらしい。
絵以外のものでもそうで、趣味の小説や、写真の捉え方や、私の言葉や、話し方や価値観はすべて、私らしいと、私を感じるものだと触れた人は言葉にする。それはとても勿体ない、この上なくしあわせなものではなかろうか。
勝手に自分の限界を定めてしまっていたのは、自分なのだと思った。
例えば、少しおかしな方向からの話だが、絵画教室の先生はメールを使わない。けれど先生の個性や特徴を考えると使ったほうが本人にとって楽かもしれないと思うケースはある。
他にもずっと憧れている絵師の人たちを見て、絵でやってみたい表現が次々と積み重なりアナログでそれを表現しようとしていたのだが、
デジタルを触れたときに、今までやりたいと思っていたものはすべてにデジタルツールによって自然に出来るもので私は寂しさも感じたが、それ以上に、がく然とした。憧れていたものは、すべてツールによる力で、実現しようと技術で補っていたものはやる必要がなかったのだと。
それは、一見さびしく悲しく見えるものかもしれない。
けれど、最近AI絵師という言葉が盛んだ。AIが絵を描く時代で、短時間でプロ顔負けの絵を仕上げたりする。それについて賛否両論あるのは絵描きとしてとても理解できる。
ただ、最近、さまざまなイラストを目にしていて、一際配色が斬新で目を引き、この絵師は誰だろう。どうしたらこんな風に塗ることを思いつくのだろう!と思い急いで作品と作者の情報を調べるとAIが描いたイラストだったということが多々発生している。
私はそれらを見ることで、いつもドキドキしこんな色彩の表現があるのだと、はじめてトイカメラの写真を見たときの気持ちのようになった。
多分、本来の人とAIのあるべき理想の関係、目的や使い方というのは、こうやって生活や考え方の補助をすることがツールとしてあるべきなのではないか。
数多の悪意や幼稚な承認欲求を埋めるために起きている問題たちよりも、それらが人といい関係を築いてほしい。それが制作の意図だったのではと思うことがある。いや、思うことにしている。
寄り添って傍らでサポートするAIの作品を人が判断し、それを元値にアイデアや可能性に気づき、自分を成長させていく。そんなAIとだからこそ、築けると思った理想の姿は考えるだけで、とても素敵なことだとわかる。
機械と人の在り方の当初だとして。今あらゆる場所で起きている問題は結局使い方。使う私たちの人間のほうの心が、機械の進歩に追いついていない未熟な結果なのだと考えたりする。
好きな絵の描き方の本で、書けなくなったときのアドバイスが載っているものがある。
アドバイスは、色んな別のことをしてみる。すべての勉強は繋がるのだ、無駄にならない。その時間が引き出しを作って、その人という個のあるものになっていくんだという言葉がある。
大好きでお気に入りだ。
それは少しだけRPGにも似ていると思ってる。例えば、最初に選べる職種として、魔法使い、僧侶、剣士の3つがあるとする。
剣士と魔法使いを極めれば、次に職の複合で剣を使いながらも攻撃魔法でも戦える魔法剣士になれる。
逆に剣士と僧侶だったら、自分や仲間が傷ついたら回復、防御して攻撃を防いだり、効果的な魔法を使いながらも最後は剣でトドメがさせるサブアタッカーになれる。
そして魔法使いと僧侶を極めれば、魔法攻撃も回復魔法も使えるスペシャリスト。
じゃあ、剣も使えて、攻撃魔法も回復魔法も使えたら……?そうしたら、パラディンになれるだろう。
でもこの中で例えば魔法剣士になったとして、回復やサポート技を覚えないとどうなるだろう?
味方と自分のレベルを上げてゴリ押しが出来るゴリラになって倒す、という脳筋プレイになるかもしれない。
サブアタッカーだったら決定打には掛けて、MPも切れかけるので魔力回復アイテムを大量に買い込んで、ジリ貧しながら挑むことになるかもしれない。
賢者は、魔法攻撃に強く、もし魔法を使えなくする技をかけてくる敵がいたら……。
それぞれ、もしかしたら、3つ目の職業を覚えることでなんとかなったり、変に意地を張ったりするより、効率がよくストーリーを楽しむという意味ではサクサクと冒険が出来るかもしれない。
この関係というのは、私は少し、カメラや絵。色んな問題に当てはめて考えられる気がするのだ。
アナログをやってみて、アナログでの素晴らしさ、出来る表現がある。
それが私は愛おしくて固執した。
でもデジタルにも利点があるのだ、今まで憧れて真似したい出来るようになりたいと思っていた技法がデジタルツールならば覚えさえすれば自分も使えるようになる。デジタルならではの遊び方と、
友人が入り口を教えてくれたように、寝っ転がるだけで出来るという気軽さもある。
じゃあ、アナログの下絵の段階や、色塗りの段階。色んな過程を撮影しておいて、あとからデジタルでキャプチャして、自分が憧れていた技法を駆使しながら、元絵も活かしたら……それはアナログとデジタルを学んで、はじめて出来る融合絵と言えるのではないだろうか?
そしてそれらもまた、私を見ていてくれる人たちに見せれば、私の世界だと、そう言葉を返してくれる。
いいなと思ったAIイラストを保存して、どこが素敵に思えたか、好きなのかも分析するようにしはじめた。これも己の力として活用していけたなら、さらにその世界は広くなる。私はそんな気がするのだ。
それらは、いじけたり、理由を言ったりしていたら、変わらないのだ。中途半端なレベルと職業と所持スキルなだけだ。
勿論、触れてみて苦手だ。出来ないと思うものもある。
それはそれでラッキーだ。だって向き不向きが理解出来て、これからは苦手なことを上手くカバーする方法や改善策を考えればいい。やれることはたくさんある。
目の前にある、存在というものを締めてしまったら。
もしくは2つもやらずに1つだけで進んでいたら。
極めた人といるだろう、でも私たちは基本ありふれた凡人なのだ、それを自覚して生きる必要がある。
極めていればいつか答えは来る。
でも、ようやく手に入れた力は、言い訳をつけていじけてなければもしかしたら、すごく序盤に出来る方法があったのかもしれない。
言い訳が上手くなるというのは、それだけ新しいものを取り入れないだけのもの。自分の可能性を自分で捨ててるだけ、あとから意地を張らなければと後悔することだってあるのだ。
それで、得られることを、言い訳ばかりしていた私は考えてみたけれど、答えが出てくることはなかった。
今の私は、アナログ、デジタル。両方使っている。
その2つを合わせていいとこ取りをしたからこその作品もある。
どれも私らしいと言ってもらえた。…はじめからそれだけでよかったのだ。
私を好きだと、作品を好んでくれる人に、色々手を出したり、貫かないこと、何かでマイナスなイメージを持たれるのではと考えることもあった。でも、私を気に入って、仲良くしたいと思ってくれる人は色々な要素で私を見ていてくれる。そう信じることにした。
だって私が仲良くしたい人、好きな人たちが、色んなことを手にしたところで、楽しそうだったら、私はとても嬉しくなる。
好きを語って、元気にしていたら、よかったと思う。
私の固定観念は違っていたと思う。矜持もなかった。
もちろん自分のペースがあるから、出来る範囲でそれを行うし、
息切れしては、キャパシティオーバーになったなら元も子もない。
元々私は、広げられる手は多い方ではない。
友人の誕生日プレゼントは半年以上かかったりするし、その人と私の間でしかわからないものを渡すときにはあえて渡したい。
会話するときは、なるべくその人とのやりとりや情報。好きや笑い声、そういうものを尊重したいから少人数でしか話せない。そのかわりにオーダメイドのような空間を作りたい。
本や音楽、作品もそうだ。好きで本は読むが、すぐに感化されて胸がいっぱいになりしばらく余韻が続く、私は一生に出逢える本は読書が好きでも、きっと少ない。
映像も、ひとつ見たらその世界の住人になってしまうし、音楽はその曲の感情に染まる。
人のようにひとつひとつとしか付き合えないのだ。
でも、それが私という人間で私の個性だ。
そして私の許容量が許す範囲で、広げすぎずに知り合えた人をひとりひとり大切にしていきたい。
人と人というものは、お互いこれだけ思いやスタンスが違うから、もしかしたら途中で違えたりするかもしれない。
それでも総合した己と関わってくれる人はいる。
これからは言い訳はもうやめて、目の前の「すき」に「作品」に。
理由をつけず、真剣に向き合おう。
人と関わるように、とそう思ったのだ。
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