ただの言い訳もいいとこで。
国語の問題はおかしい。なぜならそれは文学作品という読者の娯楽であるからだ。
よく文章題でこの人の気持ちを答えてくださいというものがあるが、そんなものわかるのはちゃんちゃらおかしく、笑ってしまう。例えば彼女に振られた主人公が泣いているシーンを見てどう思うかと聞かれた時、大半は別れたという悲しみというのが正解だとなるとしよう。しかし彼が「悲しみ」という言葉一つで終わらせられる感情にあるとは思えない。彼女に対しての復讐を思うような非情があるとも思うし、逆に彼女のこの先の人生の成功を祈るような願いもあるだろう。だが決してそれはこのシーンの大半を占めるものではなく、1%未満のもので必ずあるとは思えない。しかしそれは同時に必ずないとも言い切れるんじゃないかとも言えるだろう。
だがこんなのは言い訳に過ぎないと軽くあしらわれるのが当然で、そんなことは非常識な私の中にも多少なりとも理解はある。結局は相対的にこういうのが正しいとか、良いということをすり込むことが大切であって決してその人の同情をしてやることは重きを置いていないのだろう。描いた本人がどんなに恨みを込めて描いたものも時間が経てばその断面ではなく、表層部分を軽くなめて10を知ったと慢心したお偉い様がそれに価値、考えをつけてやればそれでいい、安直としか言いようのないことをしているのだろう。何より一番ひどいのはそのことに疑いもせず、鵜呑みにしてしまう聴衆の阿呆が害悪である。ポケーっと生きて、くるものも拒まず得体も知れないものを素通りさせて自分という容器に堆積していく。そしてある時ふと世の中の不透明さに気づいて自分も無くなってしまう時、ある意味完璧な世界が完成するのだろう。