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当たり前のことを忘れたくない

「ハイこれ、なんか来てたよー」

ルームシェアをしている同僚から渡された郵便物に、私は思わず身構えた。
洒落た封筒。丁寧に筆ペンで書かれた宛先。そして封を閉じられているシールには「invitation」の文字。

「結婚式の招待状や...!」

いや、知っていた。
中学高校の6年間、共に汗を流した部活仲間が結婚することは。その招待状が送られてくることも。3ヶ月ほど前、そのために住所を聞かれていたがすっかり忘れていた。
これまで誰かの結婚式に参加したことがない私は、招待状を受け取るのも初めて。

「確か返事を出すにあたって、何かマナーがあったはず...! あれ、いつまでに送り返せばいいんやっけ?」
すぐにグーグルを開く。

返信は基本的に1週間以内に出す。
宛先の「行」を「様」に修正する。
修正には必ず定規を使う。
「御」を二重線で消す。
何かメッセージを添える。

ルールやマナーを調べながら、結婚を決めた仲間のことをただただすごいと思った。彼とは高校を卒業してからほとんど会っていないため、近況もよく知らない。
ただ、自分が働き始めてもぼんやりと毎日を過ごしている間に、彼はパートナーを見つけるどころか、その人とこれからの長い人生を共に歩むことを決めたのだ。自分と同い年でそこまでの決断を下した彼を祝いたいと思った。

それと同時に、純粋な興味も湧いた。
「期間限定」の文字についつい引き付けられてしまうのと同じように、「結婚」という一つの確実な幸せを手にした彼が、今どんな顔をしているのか見たかった。
人間誰もが追い求めてやまないくせに、ハッキリした答えを示してくれない「幸せ」という名の魔物は、一体どんな形をしているのか。その尻尾を多少なりとも摑めそうな気がしたのだ。
帰省の新幹線代とか御祝儀にお金がかかることはもちろんだがそれは二の次。
気が付けば、返信ハガキの「出席」欄に大きく丸を書いていた。

かつては法律制度としての役割が強かった結婚は、今ではすっかり幸せの象徴の一つとして語られる。もちろんそれは否定しない。けれども招待状を受け取った時、私は自分でもビックリするくらい、羨ましいとか自分も早く結婚したいとか思わなかった。
ここで私は、前々から感じていた自分の「幸せのハードル」が下がっているという事実に安心した。

私はこの「幸せのハードル」を下げることこそが、生きやすくなるコツだと思う。
生きやすくなるとはどういうことか。
燃費がよくなるのだ。
誰かと自分を比べる度にいちいち精神をすり減らしてガス欠になっていれば回復するのにも時間と労力がかかる。
自分の幸せの基準を持ってしまえば、無駄な場所にエネルギーを割かずに済む。

そしてハードルを下げることは、妥協することとは違う。
当たり前だと思っていたこと、スルーしていたもの。気が付いていなかったことに目を向けて、改めて感謝し、愛しく思うことだ。

私の例で言うならば、天気がいいことがそれにあたる。
晴れている。
雲の隙間から澄んだ青空が見える。
陽の光が眩しい。
たったこれだけのことで、朝、玄関を出た私は訳もなく高揚する。
「今日はいいことありそうだな」と根拠もなく思う。

毎日寝る前、祈るような気持ちでiphoneの天気アプリを起動し、翌日の天気を確認している。時間毎の予報に太陽のマークがずらっと並んでいた時、心の中で小さなガッツポーズをして眠りにつくのだ。
翌朝、耳障りな目覚ましを止めた後、カーテン越しに差し込む白い光を浴びてしまえば、もうその日は幸せ確定だ。我ながら非常に燃費がよろしい。

関連して、世界の幸福度ランキングというものが毎年発表される。「国民一人あたりのGDP」「所得」「健康と寿命」「社会支援」「寛容さ」「自由」などの要素を基準にランク付けされ、それなりに精度の高いものらしい。
日本は毎年50位前後をウロウロしており、先進国でありながらその順位の低さを発表の度に取り沙汰される。このことからも、根本的な原因には日本人の幸せのハードルがまだまだ高すぎることがあるように思えてならない。

けれど最近になってようやく
お金があればそれだけで幸せだとか
恋人がいない人はダメだとか
そういう極端な意見を目にする機会は減りつつあるように思う。とてもいいことだ。

人は自分の経験でしか物事を語れない。
平成の終わりになってようやく「自分の意見を人に押し付けるのはよくない」という、小学生で習うようなことを、世の中が体現できている気がする。
もっと浸透して、気持ちが楽になる人が増えればいいと思う。

人生は幸せのマウンティング大会だ。
その試合に毎回馬鹿正直に挑んでいたら、身も心も疲弊してしまう。
逃げるが勝ちの場面を見極めて、自分だけのフィールドを作ってしまえばいい。
自分の幸せは自分が決めるものだ。
当たり前のことを忘れたくない。

来月末に行われる彼の結婚式。
幸せのハードルが下がった今の私なら、嫉妬や羨望を含まない心からの「おめでとう」を言える気がする。
真っ白で純粋な祝いの言葉を、何度でもぶつけてやろうと思う。


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