ふしぎなニホンゴ
「Kiki's Delivery Service」
キキのデリバリーサービス。
一体、何のことかお分かりだろうか?
これは、宮崎駿監督のジブリ映画「魔女の宅急便」の英語版タイトルである。
何を隠そう、そのまんまだ。
この文字列を見た時、何か思わなかっただろうか。
私は見た瞬間、強烈な違和感を覚えると同時に、笑ってしまった。
いや、別に何もおかしな点はない。
一度でも作品を観たことがある人なら「Kiki」は主人公の少女キキのことだとすぐに分かるし、「Delivery Service」も宅急便を直訳するとそう変換される。文法的にも表現的にも何も間違ってはいない。
ただ「デリバリーサービス」というカタカナ語が、あまりにも日本的で日常に浸透しているためか、私は英語版タイトルが「魔女の宅急便」というタイトルから連想されるファンタジー要素を完全に消し去っていることに笑ってしまった。
まるで違う作品のような印象を受けた。本来「魔女の宅急便」では13歳の少女キキが、箒に乗って赤い屋根の続く綺麗な街の上空を飛び回るのだが、デリバリーサービスと聞くと、下町の商店街で原付バイクを乗り回してそうな雰囲気すらある。ちょっと勘弁してほしい。
気になったので、他のジブリ作品も少し調べてみた。
「となりのトトロ」は「My Neighbor Totoro」
「ハウルの動く城」は「Howl's Moving Castle」
うん、大丈夫。特に違和感はない。安心した。
日常ではお隣さんを「ネイバーさん」とか言わないし、大阪城のことも「大阪キャッスル」とか言わない。ルー大柴でもない限り。隣の人は隣だし、城は城だ。
このように同じ意味を表す言葉でも、カタカナか漢字を用いた表現かによって、捉え方やイメージする情景が随分と異なる。けれども、これはもちろん私が生粋の日本人で、普段からカタカナ語を含めた日本語に囲まれて生活しているからこそ感じる違和感だろう。日本語に馴染みのない人からすればなんのこっちゃである。
「物は言いよう」でもあるし
「物は書かれよう」でもあるなと思った。
私たちが何かしらの言葉や単語を頭に浮かべる時、既に「形」が出来上がっている。
それはフワフワした概念のようなもので、雲みたいに常に姿を変えるのでつかみ所がない。「ケータイ」という単語を聞いた時、ある人はガラケーを連想し、ある人はスマホを連想するように、認識は必ずしも一致しない。
認識が一致しないことは別に日本語に限ったことではない。
けれど、英語だと「宅急便」と「デリバリーサービス」はイコールの関係性だとしても、日本語だと決してイコールにはならないように、もはや別々の単語として独立している。そして、ニュアンスによる細かな使い分けを、私たちは知らず知らずの内に習得している。
ここまで繊細で豊かな表現が可能になったのは、「デリバリーサービス」をはじめとしたカタカナ語の恩恵が本当に大きいのだろう。私自身も何かしら文章を書く際に浮かぶ、頭の中のパズルがカチっとハマるような表現は、カタカナ語の方が多い気がする。
けれども「そんなのはもう死語だよ」と言われることがあるように、言葉は常に更新され、時代に合わせてその姿形を変えてゆく。とても柔軟なもの。
松明の炎や、海の波を眺めていても飽きないのは、必ず同じ形で止まることがないからであり、変わりゆく物に魅力を感じるのは、言葉も同じなのだと思う。
ただ、最近は変化を急ぎすぎているのか、変に横文字を使う風習がビジネスの場でよく見られる気がする。コンセンサスとか、イシューとか、プライオリティとか。
それは日本語で言ってくれと叫びたくなる。
なんというか、そこは焦るところではないと思う。
正体がハッキリしない「何か」に無理に追いつこうとしなくていい。
今手札として持っている数多の言葉を、自分に一番フィットする形で使っていけばいいだけのことなんだと思う。
日本語は、外国人からすれば趣があって美しく感じるらしい。
母音の多さ、発音の単純さ、音の響き。
理由は多々あれど、総じて心地良いと感じる傾向にあるそう。
このことを知った時「めっちゃ得してるやん!」と思った。
24年間生きてきて、日本語を完璧に使いこなせているとは微塵も感じたことはないが、当たり前のように使っている言葉を美しいと思ってもらえているのは何だか嬉しい。
だからこそ、日本語を日本語らしく使うのは、私にできることの一つだ。
話すにしても書くにしても、背伸びせずに言葉と向き合っていけたらいいと思う。
言葉を通してでしか、私自身は表現できないのだから。