特別はすぐそばに
「私じゃなくてもできるよなあ...」
久しぶりに会った友人と「最近どう?」の流れで今の仕事の話になった。
そこでボソッと呟いた友人の一言が、すごく印象に残った。
「分かる」
声には出さなかったけれど、めちゃくちゃそう思った。めちゃくちゃ共感した。
私じゃなくてもできる。
それはつまり「自分にしかできないことをやりたい」の裏返しだと思う。
友人がその言葉を
「私なんかよりもっと相応しい人がいるはず...」という、謙遜や自信の無さから発したのか、それとも
「できる私にはもっと相応しい仕事があるはず!」という自信の表れから発したのかは分からない。
でもどちらにしろ
「自分にしかできないことって、一体なんだ?」
と私に考えさせるには十分だった。
年度末真っ只中であると同時に、出会いと別れの季節でもあるこの時期。
新年度に向けての気持ちの入れ替えにどこもかしこも慌ただしい。
1年間の中で一番大きな区切りは、12月から1月にかけての年の瀬だと思っていたけれど、
この、3月から4月にかけての期間というのも、やはり負けず劣らず皆の気持ちが切り替わる時期だなあと思った。
年の瀬が「私」一個人としての気持ちをリセットする期間なのだとすれば、
年度末は「組織」や「世の中」の一部として存在する「私」の気持ちをリセットする期間なのだと思う。
それは、誕生日を迎えることとはまた違った区切りの感覚がある。
誕生日を迎えると「もう〇歳だ...。しっかりしなきゃ」と自分の年齢に焦りを感じたりするけれど
新年度を迎えると、年齢とは別に「もう社会人〇年目だ...」とか「この仕事に就いて〇年経ったな...」と、「〇〇としての自分」の年数をカウントする。
それは、何者かである自分の指標を表すことでもあるけれど、この年数を積み重ねていけば、いつか自分にしかできないことに出会えるのだろうか。
いつだって自分は特別でありたい。
テレビの中のイチロー選手や、スクリーンの向こう側にいるブラッドピットを眺めていても、彼らになることはできない。
だからこそ他とは違う、何か自分だけのスキルや、誰も持ち合わせていないような凄い技術を以って、世の中に貢献したいと思うのは自然なことだし、私だってずっとそう思っていた。
けれども、特別な生まれ持った才能もない私は、自分がいなくても世の中はなんだかんだ回ることを早々に知った。私が今日、突然倒れようが死のうが、パパッと代わりの人が補充されて会社は成長し続けるし経済は回り続ける。
だから「自分にしかできないことって、一体なんだ?」と自分に問えば
「そんなものはねえ」と返すのが常だった。
けれどもこの4ヶ月、ライティングゼミの課題の文章を書く中で
「この文章って、自分にしか書けないよな...」
そう思う瞬間があった。
そうだ。
私が毎週毎週、寝る間を惜しんで書き上げている文章は、私というフィルターを通して書かれたものだ。内容の良し悪しやクオリティはさておき、そこには私という人間が存在することが前提になっている。
印象に残った出来事や体験、心に引っかかった誰かとの会話からストーリーを見つけて、書きたい内容と擦り合わせていく。それは地味で地道な、気の遠くなるような作業でもある。うまく進む時と全く進まない時のギャップに毎回苦しみながら、必死にキーボードを叩く。
その中で、点と点が一本の糸で繋がる瞬間は、格別気持ちのいいものがあった。長い間沈んでいた水中から顔を出し、呼吸が楽になったような感覚。
自分はこういうことを伝えたかったのかと、書いてみて初めて分かったことがある。
文字にしなければ、表すことができなかった思い。
口で伝えるのが苦手な自分は、書くことで感情を文字に翻訳しているのだと。
そういうイメージがぴたりと当てはまっていた。
誰でもできる「書く」という行為。
でも、書くために
「自分の体を使って世の中を見て、知って、感じ、考えること」
これは間違いなく、私にしかできないことだった。
しかも絶対に他の誰かと同じになることはない、唯一無二のもの。
それは言い換えれば、世の中の人全てに平等に「自分にしかできないこと」が与えられていることになる。
なんだ、こんなにも近くにあった。
灯台下暗しとはこのことだなあと笑いそうになる。
ずっと特別を追い求めていたけれど、私がこうやって書いていることそのものが特別なのだ。そう分かってからは、書くことがとても楽しい。
私が見た景色、感じた思い、忘れられない言葉。その全ては、私という人間を通してでしか表現できない。
だったら、どんなに下手くそでも不器用でも書き続けていきたい。
私の文章は
絶対に私にしか書けないのだから。