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STORY 4 ~ 6

STORY 4: お皿
じぶんはあまりにもぼうっとしてる人間なものだから、洗顔だってぼうっとしてたらまともにできない。手を洗うときにApple Watchは数をかぞえてくれるけれどもさすがに洗顔まではめんどうをみてくれない。というか、Apple Watchも、もうまいにち使ってるわけではないので、正しく十分な手洗いが毎回できているのか正直わからない。さて洗顔のはなしに戻るが、ぼうっとしているなりに、やっぱりじぶんの顔は綺麗には洗いたくて、ぼうっとはしていても、どうにかまともに洗える方法はないかと考えた日があった。ありがたいことに、ただぼうっとしてるわけでもなく、ぼうっと何か考えることが好きなのだ。いや。好きかどうかわからない。とにかく好きとか関係なく、気づいたらぼうっと何か考える生き物なのである…。それで、ある日、どのようにおもいついたのかは一切に覚えていないのだが、じぶんの顔を、お気にいりのお皿だとおもったらどうか、と考えた。今のじぶんの家に、お気にいりと言えるお皿なんてものはないけど、実家にあるピーターラビットのお皿か、ふちが金いろになっているツルッとしたお皿をおもい描いた。お気に入りのお皿だとおもうと、洗いかたがわかった。ぼうっとしてるんだから、そのようなことを考えたことすら忘れそうだが、どうしてだか、シャワーを浴びながら顔を洗うときは、覚えているのである。ちなみに洗面所で顔だけ洗うときはあまり覚えていない。さっきもシャワーを浴びながら、すみずみまで洗った。

STORY 5: カメラ
むかし、といっても数年前だが、会社の先輩から良いカメラをもらったのだが、ことしの夏になって、いきなり壊れた。電源はつくけれど、制御がきかない。勝手に露出やISOの設定をするもんだから困った。しばらく、一晩放置したら翌朝には治っているかも、なんて、なんていうかカメラの夏風邪みたいな感覚で、電源を入れたり入れなかったりしてみたが、どうにもこうにもそれは重病のようだった。特段ふるい機種というわけではないが、もう寿命かとおもった。そして、これはカメラの神様が、カメラはじぶんで買いなさい、と言っているのではないかとおもった。というのも、良いカメラをひとからもらって、それをじぶんのもののように使っていることにずっと引け目を感じていた。もらったのだから、じぶんのもので間違いないのだけれど、じぶんで選んで買うという意思決定をしたわけではないのだから、そこにピッタリときていなかった。ピッタリときていなくても、写真を撮ることはライフワークだし、このカメラを失ってしまったら、じぶんの何かを失ってしまうのではないかと、アイデンティティの喪失を恐れたりした。全くもって大袈裟な人間である。だから、とりあえず、しばらく、制御がきかないカメラを使い続けようとしたが、制御がきかないカメラなんてもっとじぶんのものではなかったので、つらくなって使うのをやめた。

カメラのない生活がちょっと寂しくなってきたころ、意を決する。修理に持っていって、とにかく見積もりをとってもらおう。見積もりが5万円よりも高かったら、新しいカメラを買う。Sonyのいちばん新しいやつか、FUJIFILMでもよい。とにかくそうしようと決めた。めずらしく、昼間に予定のない日曜日で、絶対に持って行くなら今日しかない、とおもって、梅田駅の、迷路みたいな地下を彷徨って、どうにかこうにかカメラを持っていった。カメラ屋のおじさんに、修理が5万円よりもかかるようだったら新しいのを買うんで、直さないでくださいね、と伝えて去った。見積もりがわかったら連絡するね、1週間くらいしてこちらから連絡がなかったら、お姉ちゃんから電話ちょうだいね、と電話番号を渡された。治るともおもっていないし、新しく買うといっても、高級カメラなんていまのおきゅうりょうで買って良いんだっけと憂鬱なきもちが少しだけあった。いっぽうで、壊れているカメラを家に置いておくのはストレスの原因だったので、持って行ったことで、気持ちが晴れた。まあとにかく1週間くらいはカメラのストレスから解放されるのだから、決まってから考えることにした。

その後、3日後とかの水曜日に、カメラ屋さんから電話があった。なおりましたよ!取りに来てくださいね。結局あっさりすぐになおったのである。しかも2万円くらいで、予算の半分以内だった。突然性と意外性でおったまげたが、エエほんとですか?!と、反射的に高い声を出して喜んだ。あんなに嬉しいサプライズはあるものだろうか。やはり予測できない「裏切り」のエンターテイメント性はあなどれないである。受け取りに行ったら、直しついでに経年劣化していたゴムでできたグリップの部分なども取り替えてくれていた。ようやくじぶんのカメラになった気がした。

STORY 6: スニーカー
ひとは、というよりかは、じぶんの固定観念みたいなものは簡単には覆されない。壊れたものは簡単にはなおらない、とか。それでもさきほどのカメラが直った経験というやつは、壊れたものは案外なおるのでは?と、じぶんのなかの何かをやわらかくしてくれたのだとおもう。

不意に、5月に破いてしまったスニーカーに意識がむいた。少々変わったデザインのスニーカーで、指先がチョキになっているもので、日本だと履いている人も多いとおもうのだが、アメリカではそれがものめずらしいようで、いろんなひとに褒められるものだから、ほこらしく、お気にいりだった。破いてしまったのはかかとの部分で、急いで履こうとして、人差し指を入れたさいに、びりっとやってしまったのである。それでも気にいってるものだから、かかとの下にやぶれた布ぶぶんを隠したりして、だましだまし履いていたのだが、やっぱりそんなふうにして履き続けるのはどうしてもそれがみすぼらしいというか、みっともないような気がして、どんどんはかなくなっていて、玄関のはしっこにずっと座らせていた。夏のおわりにおきゅうりょうをいただいたら、おんなじようなものをやっぱり買おうか、とおもったが、破けたのはたったの右足のかかとだけで、そのほかの部分はあんなに状態が良いのになあ、と悔しくおもった。いっそのこと左足のかかと部分も全部やぶいてサンダルみたいにしてみようか?いやいや、これまでそんなふうにおもってアップサイクルがうまくいったためしがないのだから・・・。そんなときに、カメラの修理がうまくいって、嬉しくて、ピンときた。カメラがあんなにあっさり直ったのだから、案外、スニーカーもあっさり直るかもしれない。そんな希望が湧いて、大丸梅田の、ハンズの奥の方にある革靴屋さんへ持っていった。あの、このスニーカーなんですけど、かかとがやぶれてしまっていて、直していただくことできませんか?革靴職人のおじさんが見せてもらっていいですか、というのでスニーカーを手渡す。他人のくつなんて決して綺麗なものではないだろうから、ハサミを渡すときのように、丁寧にわたしたのだが、職人のおじさんは、スニーカーを受け取ると、子猫のように「抱っこ」してくれた。スニーカーの底を手のひらの上に置いて、ふむふむと状態を確認してくれた。その様子を、ヒエ〜これが職人かぁと感心して眺めていたのだが、さすがに革靴屋さんにスニーカーを持って来る輩はなかなかいないようで、苦笑いしながら、ちょっとわからないけどとにかく直してみますね、と言ってくれた。数日後、受け取りに行くと、綺麗に直っていたので、やはり壊れたものは案外直るのだなと改めて感心した。大事に大事に長く履こう。


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