ジョージアაბანო旅③ 温泉大国へ最初に入浴文化を根付かせたのは、あの巨大帝国だった
「アバノの歴史を紐解きたい」という私の要望を知り、ジョージア文化に精通したフィンランドサウナ協会員さんが、とても頼もしい現地のエキスパートを紹介してくださいました。ジョージアの伝統建築や文化財の修復・再建に携わる、建築家・建築史家のDavid Givishliviさんです。
「ジョージアでは、長い歴史のなかで、なぜ蒸気浴ではなく温水浴が主流であり続けたのですか?」という問いを、出発前のやりとりで直接ダビッドさんにぶつけたとき、彼は「はっきりとした答えを出すのは難しいが、少なくとも、いくつかの要因が複合的に絡み合った結果のように思う。」とまず答えました。そして、そのヒントが見つかる歴史的な場所の何箇所かに、私を連れて行ってくれると約束してくれたのでした。
トビリシで彼との対面を無事に果たした後は、英語を話さないダビッドさんの通訳役で娘さんも同伴し、超マイペースでひょうきんなドライバーさんを含めた4人で、いざ数日間の未知なるロードトリップへと出発です!
トビリシ遷都以前に古代ローマ帝国の軍人が持ち込んでいた公衆浴場文化
一行がまず向かったのは、首都トビリシから北西に50キロほど離れたところにある、ძალისი(Dzalisi / ドザリシ)という小さな村。
ここは良質な牛肉を生産する街として有名で、毎週日曜日には村の中心で、家畜の売り買い市を中心とした大きなバザール(家畜市)が開かれます。私たちが訪れたのもちょうど日曜日で、交渉成立した牛が馬車に引かれていったり、生きた牛が軒先の金属台にかつがれて屠殺され、血で地面が真っ赤に染まってゆく…という強烈な光景をそこここで目にしました。
現在のドザリシ村がある地には、紀元前2世紀ごろから人が定住して集落を形成し、8世紀頃まで文明都市が存在していたことが、考古学検証からわかっています。
紀元前4世紀から紀元後6世期にかけて、現在のジョージア領土の中東部大半を治めていたのはイベリア王国です。ただし、紀元前1世紀に東の隣国コルキス王国(を治めていたポントス王国)が共和政ローマ(紀元前23年のローマ帝国成立以前の古代ローマ)のポンペイウス軍に敗れて属領化した直後、イベリア王国も否応なしにローマの保護下に置かれました。その支配自体は緩やかで名目的なものであったようですが、西方からの度重なる伝道を受けて、推定319年に、イベリア国王は世界に先駆けた国のキリスト教化を遂げています。
イベリア王国は、5世紀には南方からのペルシャ人の支配にも悩まされましたが、見事主権を回復した第32代国王のヴァフタング1世が温泉に惚れ込み、現在の首都トビリシに遷都を行なったユニークな歴史は、こちらの記事で紹介したとおりです。
では、ジョージアの人々と「浴場/入浴」という生活習慣との最初の接点がこのトビリシ遷都のタイミングであったかというと、決してそうではありません。実は、ローマ帝国の軍人たちの東方進出と支配が進むなかで、キリスト教とはまた別の、ある歴史的な文化がイベリア王国内に持ち込まれました。それが、ローマ風呂の公衆浴場つまりテルマエでの入浴習慣だったのです。
ドザリシ村で発掘された、ローマ浴場の見事な遺構の数々をご紹介
ダヴィッドさんは、ドザリシ村の日曜市でのショッピングを一通り楽しんだあと(笑)、村外れにある簡素なフェンスで囲われていて、ぱっと見ではただの野原にしか見えない場所へと、私を連れて行ってくださいました。
なんとその区画内で保存されていたのは、この地域がローマ帝国の保護下になって間もないころにローマ軍の将官が築かせたという、巨大なテルマエ公衆浴場(と、寺院・宮殿・浴場の複合建築)の遺跡。建造年代ははっきりしていませんが、少なくとも公衆浴場部分は紀元後2〜4世紀の間と推定されています。
現在プレハブの建物内で保存や調査が行なわれている寺院や宮殿部分は、アリジと呼ばれるローカルな粘土で作られた正方形状のレンガで造られ、内部は漆喰や石灰で塗り込められていました。
いっぽう、浴場部分はレンガと石畳で形造られ、古代ローマ風呂の画期的な温水ヒーティングシステムを特徴づける、ハイポコーストの遺構が見事な形を留めています。
宮殿に併設された、格式とプライベート感の高いほうの浴場は、広々とした更衣室から、水風呂のあるフリギダリウム、中温の熱気浴室テピダリウム、お湯の浴槽をもつ高温の熱気浴室カルダリウムへ…と、典型的なローマ風呂の形式を踏襲していたようです。各浴室のサイズはすべて同じで、5×2.5メートルくらいの空間。南北それぞれの壁側には半円形のアプスがあったようです。浴室の床にはイルカの頭、ウニ、魚たちなどのタイル画があったようで、現物は見られませんでしたが、なんとなくそのモチーフのタイル画は、日本の銭湯にもありそうなやつかな?と想像が膨らみます笑。
そして、中温および高温の温水ボイラーが必要になるテピダリウムとカルダリウムの下には、平らなレンガを積み上げてつくったハイポコーストによる暖房システムが敷かれていました。
うわああぁ、2000年も前に造られたお風呂のボイラー構造を(ローマから何千キロも離れた地で)この目で見られる日が来るなんて!!!しかも、施設はかなりゆるい雰囲気で、流石に触ることはできませんが、すぐ間近で観察させてもらえるんです。これには大興奮!
いっぽう、そばには宮殿併設の浴場とは別に、より民間に開かれた巨大な公衆浴場(テルマエ)が存在していました。基本構造や設備は宮殿側と同じですが、敷地サイズからしても収容人数は宮殿内浴場より多く、入浴者たちの休憩中の社交場として使われていたアトリウムなどもあり、完全にローマ時代のスーパー銭湯テルマエとしての機能を果たしていたのだろうな…と、野草の生い茂る野のあちこちに残る遺構から想像が膨らみます。
カルダリウムの北側には、4×2,8メートルというサイズの、薪を燃やすための釜が設置されており、モルタル造りの火道で湯船用のハイポコーストと繋がっていました。やはりここでは、トビリシのように温泉が湧き出ていたわけではなく、あくまで技術で大量の水を引き、加熱して利用していたのです。
また、今はもう「立体的」には見ることのできない当時の公衆浴場建築ですが、管理人さんの説明によれば、それぞれの浴室の壁には、ラジエーターとなるセラミック製のパイプが垂直に埋め込まれていて、壁と表面のタイルの間の数ミリの隙間を熱風が流れて部屋を温めていたとのこと。発掘時はこのパイプラインとともに、鉛でできた当時の水道管も出土したそうです。
ジョージアの雄大な自然が生み出す、豊富で良質なパーフェクトウォーターを浴びまくれ!
この遺跡で何より感動させられるのが、公衆浴場に隣接する形で存在していた、巨大プールの遺構です。基本構造は長方形で、そのサイズは33,4×11,5メートルと、私たちに馴染みのある学校の25メートルプールよりずっと大きかったのですよ!それぞれの辺の中央には、半円形のアプス(後陣)が見られます。
この巨大浴槽内には、西側から2本のパイプラインを通じて水が注がれていたようです。北側には浴場とつながる石階段があったほか、プール内や縁にはくつろぐためのベンチなども建造されていたとか。
遺跡の管理人さんの話によれば、ローマ帝国の将官がこれほどの大規模な公衆浴場を作らせた理由は、背後の山から流れてくる天然水の水質や水量が素晴らしく、ぜひこの水を引いてきて浴場を作りたいと言い出したからなのだそう。また、実際ローマ風呂が築かれたのはドザリシだけではなく、遺構は国内の他の地域でも見つかっています。
場所によっては万年雪も見られる、雄大な高山に囲まれたジョージア。国内の至るところで、ローマ風呂建設の数百年後にトビリシで見つかる天然温泉だけでなく、体を清めるにも飲料にも適したピュアでミネラル豊富な水が湧き続けているのです。自然の中だけでなく住宅街の一角でも、人々が大きなボトルをもってわざわざ飲料水を汲みに来ているスポットをあちこちで見かけました。
旅の間、ジョージア人の誰に尋ねても、「この国の天然水は世界一のパーフェクトウォーターさ!」という誇らしいコメントが返ってきました。古代ローマの軍人たちもまた、このパーフェクトウォーターをめいっぱい浴びて癒やされたいという欲求から、あれほどの巨大浴場施設をこの辺境地につくらせたのも、頷けますね。
次回予告。
この古代遺跡を訪れたことで、ジョージアという国が、単に温泉がよく湧くから…というだけでなく、そもそも2000年前から西洋由来の「湯や水に浸かる」公衆浴場文化や先進的なボイラーシステムが根付いていた土地であることが実感できました。ですが、欧州ではこの後、ローマ帝国の衰退とともに入浴文化も廃れてゆきます。それなのに、なぜジョージアでは温水浴文化や公衆浴場が廃れずに受け継がれてきたのか…。次回は、その謎をどうにか解き明かしてみたいと思います。
★参考にしたサイト
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