ジョージアაბანო旅④ ローマ風呂が滅びようともジョージア風呂が不滅だったわけ
やや間が空きましたが、ようやくジョージアაბანო(アバノ=風呂)旅の最終回です。
前回の記事で、ヨーロッパとアジアと中東の交差点ジョージアで、なぜかメジャーな蒸気浴ではなく、日本人同様の温水浴が根付いた発端の理由として、ローマ帝国時代に持ち込まれた古代ローマの公衆浴場での入浴文化の影響力を挙げました。
けれどご存知のように、かつてローマ帝国のすみずみまで伝搬した公衆浴場文化は、帝国の衰退とともに維持が難しくなります(当時のローマ風呂では、そもそも入浴料はほとんど徴収されず、民衆の支持集めの事業の一環として帝国自身が資金負担をしていた)。そして帝国崩壊後は、豪華な浴場建築も侵攻民族によって破壊されたり牢獄に転用されたりして、瞬く間に廃墟と化してゆきました。
さらに、キリスト教の禁欲主義の厳格化によって、入浴という行為そのものが忌み嫌われるようになったことから、少なくとも欧州各地では(フィンランドのように、キリスト教の流入が遅かったり監視の眼が行き届かなかった僻地で入浴が実践され続けた例外を除き)、風呂に入るという行為そのものが人々の日常から影を潜めてしまいます。
帝国滅亡後も脈々と受け継がれていた、湯に浸かる日常の痕跡
ところがジョージアの国内各地には、建設年のしっかりした特定は難しいにしても、中世(10〜14世紀)、中世後期(14〜15世紀頃)、あるいは17世紀以降に造られたとされる、いわゆる浴槽を持った小型の公衆浴場や、王族や貴族の個人浴室の遺跡がいくつも見つかっており、少なくとも入浴(入湯)という文化が、ローマ帝国滅亡後も決して途絶えていたわけではなかったことがうかがえます。
伝統建築修復家・建築史家David Givishliviさんとの旅の途中に、そのいくつかの貴重な遺構を見学してきました。例えば、トビリシから北東に100キロほどの場所にあるテラヴィという街には、18世紀にジョージア中東部の地を治めていた王エレクレ2世の要塞(バトニスツィヘ)が残っているのですが、その敷地内にも、彼の使っていた浴室の遺構が見つかりました。
持ち運びできるバスタブを部屋に設置する沐浴タイプではなく、釜を持った温水入浴のための空間自体が、母屋と切り離され別棟として独立していたことからも、国の重鎮たちも入浴という時間を重視していたと想像できます。
歴史上、さまざまな外部勢力の侵攻を受けながらも、徹底してキリスト教信仰を保ち続けたジョージアにおいて、ローマ帝国滅亡後も入浴習慣が定着し続けた理由は、実は意外にも、すぐ南方のイスラム国の影響が大きかったと考えられます。
アバノ=イスラム教徒の入浴習慣「ハマム」の変異種?
かつてローマ帝国の東南部を征服した中東のイスラム勢力は、異文化異文明の破壊と制圧を推し進めながらも、少なからず古代ローマ人特有の文化を受容し引き継いでゆきました。実はその代表例が「ローマ風呂」を手本とした公衆浴場「ハマム」です。
イスラム社会最初期の浴場建築は、8世紀ごろの、西方侵攻に躍起だったウマイヤ朝時代のものだとされます。ローマ人の入浴という生活習慣に触れ、その行為が常に心身を清潔に保つことを重んじるイスラムの教えに合致することからも、イスラム文化圏内で、主にモスクに付随する形で公衆浴場建築が急速に進んだ…というのが、ハマム普及にまつわる一般説です。
ただし、ローマ風呂のように巨大規模の大浴場を造り、良質の水を潤沢に引いて沐浴する…というのは、イスラム圏の国々の風土や環境では土台無理な話。プールや浴槽部分は早々にカットされ、風土や伝統に合わせて改良が加えられてゆきます。結果、地域ごとに特色やバリエーションはありますが、概ね床下暖房による熱気浴(と、その中での垢すりマッサージによる洗体)が主流となりました。
ハマムという入浴文化は、以後、イスラム文明においてなくてはならぬ清めの施設として根強く維持され、廃れることなく今に至ります。また、公衆浴場としてだけでなく、国家君主や有力者たちは自宅にプライベート・ハマムを建設するようにもなり、近世以降は個人宅にも浴室が普及しました。
先にも述べたように、ジョージアという国は、歴史的にキリスト教国としての矜恃を持ち続けました。とはいえ南方には現トルコ・イラク・シリア・イランといった強大なイスラム教国が並ぶ地理からも想像がつくように、歴代のイスラム王朝やオスマン帝国と絶えず接触し、抗争していました。
西欧の国々で、モラルやキリスト教義に抵触した入浴文化が廃れたなか、曲がりなりにもキリスト教国であり続けたジョージアでは、なぜかほそぼそと入浴習慣が受け継がれ続けた。これは、地理的にも文化的にも西欧との繋がりを弱め、代わって、ハマムという入浴文化を礼賛するイスラム勢力との文明接触を強めた歴史を象徴する、ジョージアならではの現象と言えるのかもしれません。
現に、中世や近世に造られた歴史的なアバノの浴場建築にも、比較的後になって造られた観光向けの浴場にも、明らかにイスラム建築(のなかでもとりわけペルシャ式?)の様式美の影響が見て取れます。ただしその内部にはまず浴槽があり、蒸気浴ではなく温水浴のほうが行われていたのですが。
つまり、アバノという入浴文化は、かつて風呂文化を置き土産にローマ帝国が衰退した後、まったく別の地でローマ帝国に影響を受けて生まれた入浴文化が再合流した結果、ジョージアの地で独自の形態と伝統を留めることになった…という推測が立つのです。
実は近隣国イランにもあった、お湯に浸かるイスラム風呂文化
では逆に、イスラム世界に蒸気浴でなく「湯に浸かる」温水浴タイプのハマムはまったく存在しなかったかといえば、実はそうではありません。
ジョージアやコーカサス諸国の南東に位置するイランには、ギャルマーベ(※ペルシャ語で「湯」という意味)と呼ばれる、温水用の大きな浴槽を持つ浴室での入浴法が、かつて普及していたのだと言います。
もっとも、中世期のギャルマーベは、他の地域の標準的なハマムと比較しても清潔な場とは程遠かったと、数々の歴史資料や文学で告発されています(苦笑)浴槽の水が、年3〜4回しか取り替えられなかったという衝撃の記述も見つかりました…。
ジョージアのアバノ建築の多くに、ペルシャ様式の影響が色濃く見られること、また(私自身が調べたわけではないですが)湯に浸かる入浴施設が、イランとジョージアの間に位置するアルメニアやアゼルバイジャンにも存在するらしいことから、そもそも、ギャルマーベの入浴文化がジョージアやコーカサス諸国に伝わってアバノになった、と考えることもできるでしょう。
さらにこのギャルマーベこそが、中国方面へ入湯文化をもたらしたルーツだ、と主張する学者もいます。
ですがやはり、ギャルマーベ文化が生まれる以前からすでにローマ風呂の文化に触れ、国土中が上質で豊富な水資源に恵まれ、さらに国内の要所で古くから温泉も活用されていたジョージアの類まれな歴史風土なくして、アバノという温水浴文化は誕生も残存もしなかったのではないか…というのがダビッドさんの見解であり、私もそれに強く共感しています。
ここまでの記事でも紹介した通り、首都トビリシなどの天然温泉はもちろん、良質な湧き水や地下水にアクセスできる土地が古代から権力者らの目に止まり、疲労回復やリラクゼーションや社交を目的とした浴場が築かれてきた国家です。
やはり今も昔もジョージア人にとっては、蒸気を浴びるよりも水やお湯にとっぷりと身を沈めるほうが、自慢の名水を堪能するのに最適な入浴方法だったのではないでしょうか。
アバノは今まさに、未曾有の存続危機に…
このように、ユニークな歴史とともに今日まで受け継がれてきたアバノという入浴文化は、実は今が一番存続の危機に瀕している…とダビッドさんは警鐘を鳴らしていました。
もちろん首都圏の温泉街などでは、今でも天然温泉が引かれ続け、リラクゼーション重視のモダンなスパやローカル公衆浴場が地元客や観光客でそれなりに賑わいを見せていますが(とはいえそれらもコロナで状況が一変したと噂で聞きますが…)、現代人はやはり自宅のシャワーで入浴タイムを済ます人が大半で、わざわざ公衆浴場に通う人は少ないと言います。
首都圏だけでもかつてあちこちに眼にしたという浴場は、すっかり廃れたまま放置されていたり、建物の外観だけを残しながら、レストランなど別の商業施設に再活用されているものが目立ちました。
状況は決して楽観視はできないのかもしれないけれど、それでも私たち日本人にとって馴染みの深い「熱々の湯につかる」文化を共有できる民族魂が、ジョージアで残り続けてくれることを、願い続けたいと思います。
ジョージアは食文化も人との交流も本当に良い印象しかなかったので、またぜひひとっ風呂浴びに再来したいなあ!
ジョージア・アバノ編もこれにてようやく完結。
次回からは、さまざまなハマムの中でも、今日まで独自のスタイルを残しづつけてきた、モロッコ人のハマム文化見聞録をスタートさせます!