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この世の汚物のオッサンに生まれついて思うこと

まぁ、我ながら恐ろしい生き物になってしまったと思う。

直接のきっかけではないが、思い出されるのは、ツイッターで、韓国系の女の子(たぶん高校生)が、痴漢に遭い、それを非難するツイートをしていたのを見て、私が応援のツイートを送ったことがあった。

壮絶な叩きに遭った。

私だけならどうにでも耐えられる。特定のツイートについて通知を切る方法も知ってるし、鬼スルーしかないことも知ってる。ただ叩きに来ているのはわかったし、そういう時に、絶対に反応してはいけないことも知ってる。
だけど、全ての叩きツイートが、元のツイート主を巻き込んでしまっていたのだ。

一番痛かったのは、そのご本人が、たぶん私の応援リプライを、迷惑としか思っていなかったことだ。まぁ、叩きが激しかったので、判断ができない状況だったから、私には十分にはわからないが。それもあって、私は完全撤退をすることにした。全てのリプライ(といっても2、3だったと思うが)を削除した。
私の動きとは関係なく、ご本人も、最終的に、ほとんど全てのツイートを削除したようだった。

私にしてみれば痛い敗北だった。あの時、本当に思った。
私は、オッサンなのだと。この世の汚物なのだと。
だからというわけではないが、私の、根源的な動機について書いてみようと思う。

ここまでが長いのでさっさと結論を書くが、何も知らない10代の頃、私は、性犯罪に遭う女性を救って、犯人たちに殺されてしまう、そういう「美しい死」に憧れていた。

それを美しいと思うのが、まだ無垢な高校生の頃の愚かな妄想だから、別にそれはどうでもいい。その頃、もう一つ、私が憧れた「美しい死」があるのだが、それはまた稿を改める。
死を美しいと思い、美しい動機で憤死することを望みすらした私の妄想は、それなりにその後の私の人生に方向を与えてきたと思っている。

私は、どんなことがあっても、女性を守りたいと思って生きてきた。

もちろんそれはそれこそ、勝手な妄想だ。女性とて一個の人間であり、私ごときに守っていただくことなど求めてはいない。若い頃はともかく、女性とつき合い、経験を経て、それなりに分別をわきまえてきた私は、自分のできる範囲内で理性を持てるようになった。が、それでも、「守りたい」という欲求を失うことはなかった。

その根源的欲求を、他人様に迷惑をかけることなく満たすのが、電車の中で痴漢を止めることだったのだ。私はこれに関しては、一切、自分にためらうことがなかった。
ただ、それでも、こざかしい私は考えた。もし、明確に、女性が痴漢を警察、あるいは駅員さんに突き出すのなら応援しよう。だけど、そうでなければ、あからさまに騒ぎにしては、女性の方も迷惑だろう。
だから私は、電車の中で、痴漢をしている「らしい」ひとがいたら、ごくさりげなく、その男と、女性の間に、揺れに合わせてさりげなく身体を割り込ませ、女性の身体に触ることができないように妨害することを、常習的にやっていた。

認めよう、私はこれを、私が気づく限り必ずやってきた。常習犯と言って良い。

ただ、その全てが間違いなく痴漢だったとは思わない。「それらしい」と気づいた時は全て妨害してきたので、実は痴漢ではなかった場合もあるだろう。だけど別に痴漢呼ばわりして捕まえたわけではなく、ただ妨害しただけなので、予防として機能すれば良いと思ってきた。自己満足だとは百も承知している。

だから私は言うのだ。痴漢冤罪だと、何を与太を言っているのかと。私は、ある意味、痴漢冤罪に最も近い、危険なことをやっていたわけだから。
もちろん、絶対に疑われないように、常に、自分の手は上に挙げていた。身体を割り込ませる時も、必ず、身体を横向けにした。絶対に、正対させることはなかった。だから私は満員電車では、両手を挙げる、少なくとも、新聞や荷物を見えるところに持つ等して、誰の目にも自分の手の所在が必ず明らかになるようにして乗るのが当たり前だった。
私は今も、それが男性の当然のマナーだと思っている。それを怠って痴漢冤罪に問われる男性がいたとして、私はその方の味方をすることはない。

それでも苦い思い出は、ないことはない。私の前に立っていた女性が、たぶん、誰かに触られたのだろう、「誰?」と言って振り向いた。そしてそこには私の顔があった。まぁ、幸い、私は両手でつり革につかまっていたので、疑いをかけられることはなかったのだが、本音を言うなら、私はその瞬間、その女性に、軽い殺意を抱いたことを否定しない(半ば冗談である(笑))。
「俺を疑うのか! この俺を!」
と思ったが、私の普段の行状など、絶対に誰にも知られることはない。それにこの話を披瀝するのは、たぶんここが初めてだ。長い付き合いの友達には、誰か喋ったことがあるかも知れないが、たぶん、嫁さんにも、付き合った彼女の誰にも話したことはない。自慢するような話でもないと思ってきたから。

オッサンになって、本当に、世の女性に迷惑な汚物扱いされているのを感じる。特にツイッターでは、うかつに女性に近づくと、下心があるのではないかと疑われているのではないかと、こっちが遠慮してしまう。
冒頭で書いた、痴漢に遭った女の子を応援することなど、私の根源的存在理由からすれば、ごく自然なことなのだが、そんなことは他人様は知りようがない。口に出さなければ絶対に伝わらない。あの時、叩かれた時に投げられた言葉は、正直言うが、かなり悔しかった。自分には絶対にあり得ない言葉だったからだ。だがそれも、黙っていれば伝わらない。

だから、敢えて、書いてみることにした。
それでも、伝わらないことは多かろうとは思うけれど。

余談だけれど、だから私にとって、性犯罪に遭った女性に、少しでも力になりたいと思うことは、根源的欲求なのだ。根源的欲求に、理由などない。だからこの点に関して、申し訳ないが、私が男性の側に立って話をすることは、ない。
これを読んでいる男性で、私がそういう態度をしてきたことについて、納得された方もいるのではないかと思っている。

セックスに関して、というと大きくなるから100%とは言わないが、私が男性の味方をすることは、基本的にはない。

さて、さらに余談をいくつか。

電車の中で痴漢を妨害して、私は感謝の言葉をいただいたことは一度もない。だけどそれこそが、私がやってきたことが間違っていなかったことの勲章だと、私は思っている。私は自分の根源的欲求と自覚し、それはただのワガママだとずっと思ってきた。だから事を荒立てず、静かにやり過ごすことこそ、私の目的だったのだから。

もう一つ。大学を出て、最初に就職した会社で、女性の先輩に言われた言葉を覚えている。
「世の女性のほとんどは痴漢に遭ったことがある。だったら、世の男性の、少なくとも半分は、一度は痴漢をしたことがあるんじゃないの?」
私は、否定しても信じてもらえないんだなと苦笑いしつつ、一応、否定したように記憶している。

私は、若い頃に妄想したように、性犯罪の現場に遭遇し、身を挺する場面には巡り会わなかった。だけどそれで良かったのではないかと思っている。本当にその場面になってしまったら、その瞬間、私は10代の子供に還ってしまうかも知れない。だからそれはたぶん、起こらなくて良かったのだ。

最後に。ここまで読んでくださってありがとうございます。
何故これを書いたか、根源的理由。

私は今、自分探しをしているのです(笑)

自分にとって、絶対に譲れないことは何か。自分を存在させている理由は何か。仮に、嫁さんも、家族も、友達も、知己の全てを喪ったとして、それでも私は生きていくことができるか。
フィンランドに行ったら、私は一人になりますからね。その時、自分を支えるものは何か。もちろん、知己とのつながりが切れることはないんですけどね。

その一つが、ここにあります。

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