【エッセイ】土地の記憶
ふと、考えてしまった。
どうして私はブラジルにいるのだろう、と。
「なんでブラジルに来たの?」
「なんでポルトガル語をしてるの?」
よく聞かれる。
決まってこう答える。
「ポルトガル語を始めたのは、大学受験でスペイン語科に落ちたから。スペイン語を志望したのは高校時代にパラグアイに留学していたからで、そのときはなんとなく、マイナーなところに行きたくて。」
「人類学ゼミで、卒論でブラジルでの日系新宗教の拡大について書いたんだ。それで日系社会に興味がわいて、ギャップイヤーも兼ねてパラナに来ることにしたんだよ。」
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ブラジルが好きかと聞かれたら、好きだ。
でも何がと言われると、返事に困る。
文化
音楽
料理
文学
踊り
スポーツ
アート
何一つとして、特別に詳しいことはない。
では、どんなときにブラジルに来てよかったと思うか。
ポンデケージョがおいしいとき
授業中にトイレに行っても変な空気にならないとき
公園でみんなごろごろしてるとき
初対面の人たちが集まってもすぐ打ち解けるとき
でも、これだけじゃあ日本ではない国ならどこでもいいみたいだ。じゃあ、なんで。
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「土地の記憶」
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ゴンドワナ大陸から分離した、南アメリカ大陸。
海からまだ低かったころ、私のいるこの大陸は、今より一回りおおきかった。
ベーリング海峡説や黒潮説など、モンゴロイドがどのように南米に到達したのか、まだわからない部分が多い。
一つ言えるのは、ここは地球の中でも、にんげんがやって来るのが他の地域に比べおそかった、ということ。
16世紀、ヨーロッパの船乗りたちがまた、アメリカ大陸を再発見する。
その後、ヨーロッパからの入植、アフリカの人々の奴隷としての輸入、奴隷廃止後の労働力としての東欧やアジアからの移民があった。
比較的みじかい期間に、多くの民族が折り重なるようにこの地にやってきた。
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この地の、自然と人間の共存は、短い。
自然が人間に飼いならされていない、馴染んでいない、と感じる。
あらっぽい赤土にぶっきらぼうに生えるサボテン。
もとの木がわからなく程びっちりと生える寄生植物。彼は電線や屋根すらも侵食する。
路傍の植物はまるで、子供のらくがきのように線が太く、おおざっぱな作りだ。
そんななかに暴力的に鮮やかなハイビスカスかぼんぼんと咲く。
南アジアでは、この感覚はなかった。バリやインドの植物は、みちみちと水っぽい。女性っぽさを感じる。
ポルトガルやイギリスの自然は、くすんだ色合いの町並みと馴染んでひとつづきのようだった。
ニュージーランドの森は少し独特だ。人を怖がることを知らずに次々と捕獲されてしまったモアのよう。妙な人懐こさがある。とはいえ、もちろん気をつけなくてはならないけれど、それは、大クマがじゃれてのしかかってきたら人は耐えきれず潰れてしまった、とでもいうような、無邪気なこわさ。
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きっと私は、ブラジルの土地の記憶が好きなのだろう。断定はできないのだけれど。
自然は文明に馴染まず、野生のままで、申し訳程度に人間に分け与えられた土地に、実にさまざまなルーツをもつ人々が暮らしている。
「サァいこふブラジルへ」。
兎にも角にも、住んでしまったが運の尽き。
なんでもかんでも、住めば都。
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