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風邪で自分がコミュニケーションを欲していたことを知る

つい先日、仕事先の方と電話をしていたら喉がイガイガしてきた。声がどんどん出にくくなり、電話を切った後は急激に声が出なくなった。しまいには、翌朝起きたら空気の音しか出なかった。
この記事を書いている今も、まだ完全復帰とは言えない。

書き添えておくが、仕事先の方と大きな声で話したり怒鳴ったりと、大きい声を使ったわけではない。耳鼻科の先生にも「大きな声を出しましたか?」と言われたが、皆無である。

私はライター業を主な生業にしているが、時折、司会業やラジオもやらせてもらっている。だから「声」は私にとって生命線である。
だが生命線以上に、声が出なくなったことで猛烈に感じたことがあった。
まだ完全復帰していない今だからこそ書けるリアルな気持ちを書き残しておきたい。
noteはいつかやりたいとは思っていたが、ようやく、いや「今」がスタート時である。

声が出なくなった時に感じたこと

まずは「こんなに人とコミュニケーションを取るのが難しいとは!」と感じた。

コンビニに行って店員さんに「温めますか?」と言われても「お願いします」と言うことができない。ガソリンスタンドに言っても「レギュラーお願いします」と言うことができない。

我が子(8ヶ月)の名前を呼ぶことができないし、歌を歌ってあげられないし、離乳食をあげるときに「口を開けて~。アーン」とも言えない。

ええ。日常生活がままならないのである。司会の仕事とかライターの仕事どころじゃない。「日常」ができないのである。そう、生きていけないのだ。

やむを得なく、1週間の司会やライターやミーティングの仕事をキャンセルし、延期にできるものはお願いした。司会業に関しては、この17年で初めてキャンセルした。とてもショックであった。そう、自分に。

司会業をしている手前、日頃「声」の調子に関しては人一倍気を使ってきた。でも、今回のことでまだまだ甘いのが分かった。
もし人生が80年だとしたら、私は折り返し地点を4年超えている。
だから声以上に「体」そのものに、もう少し気を使って生きていかなければならないのかもしれない。

奮起して我が子を抱っこしながら散歩に行ったが、まぁ続かない。楽しいことは、毎日やっていると「楽しい」と感じなくなるのである。

コミュニケーションを欲している自分と出会った

私は司会業やライター業をしているが、コミュニケーションに長けているかと問われれば、そうではない。
親しい友人は2~3人ほどだし、名刺交換会のようなコミュに自ら出向くこともあまりない。SNSは楽しいけど、友達が開催するイベントやライブを見つけて頻繁に顔出すこともない。だから私を「ヒジュル~(冷たい人)」と言い放ってくる人もいるけど、気にしてない。
だってそう言ってくる人はたいていお店の人(商売の人)だから。客に来店を期待して、さほど私を来店しなかったら「冷たい」と思うのではないか。そう思うなら、もっと客が店に来やすいように工夫すればいいのに、と思ってしまう。

そんな私だが、「声が出ない」ことで人とのコミュニケーションを欲している自分を見つけた。


声が出たらできること

声が出たら我が子に歌を歌ってあげられるし、あやしてあげられる。主人と美味しいご飯を食べて「美味しいね~」と微笑むことができる。

出産を機にAppleポッドキャストなどのネットラジオの発信を休んでいるが、「なんで早く復帰しなかったのか」と反省したし、復帰の時期をいつかいつかと待っていた自分にも悔やんだ。声が出るのだから、自分の好きなこと、自分の思いを、いつでもたくさん発信すればいい。

取材に行きたいエリアやお店は沢山あるのに、まだ行けてない場所がいっぱいある。それも悔やんだ。声が出るのだから、たくさん取材したい場所に自由に電話したりメールしたりアポイントメントを取れる。

「声がでること自体が奇跡」なんだから、声が出ているうちに、行きたいところに行って、やりたいことをやればいい。

「声が出ているうちに」とは大げさな感じもするが、大げさではない。今回私は急に、前触れなく声が出なくなった経験をしたゆえ、またそれが明日来るかもしれないと分かったのである。

インターネットやSNSやLINEやら猛烈なデジタル世界に生きているのに、私は「声」で人と話をしたかった。そう。声が出ないことで、「こんなにも私は人とコミュニケーションをしたいのだな」と分かってしまった。

私にとって、これは随分な機会である。
ということで、Youtubeチャンネルを立ち上げ、noteに記事を書きはじめて、声を動画や文字で表現することを試みはじめた。

私は自分で言うのも恥ずかしいが、頭でっかちである。夫や親に言わせれば「頭より口が先に出る」性分だそうで、夫は「行動も早い」という。
だが、とうの私はそうは思っていない。ずいぶん頭でっかちで、行動が遅すぎて、毎日そんな自分にため息が出ている。

だから今回の「声が出ない」ことに、とても感謝している。
こんな事なんか起こらないと、私はyoutbeやnoteがいまだ「夢」のそのまた「夢」で終わっていたかもしれない。


声を超えるツールはないのかも

今回感じたのは、「人間の体(声や耳など)を越えるコミュニケーション手段はまだ無いのかもしれない」ということ。
でも、せっかくデジタル世界に生きているのだから、デジタルなツールを使って、自分の声を伝えていきたい。

はじめがあれば、終わりはくる。

このデジタル世界も、いつかは終わってしまうかもしれない。
だから今のうちに、心の声を大切に、発信していく。









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