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138億年の時間の中で ☆第12話☆「生きづらいとかなんとか」
「そんなに生きづらいものなのか??」
昭和17年生まれの父がボソッと呟いたのはコロナ前だったから、一昨年のことだったかいつだったか。若者の生きづらさを特集していた番組をボンヤリと見ていた時でした。
そりゃあねえ。父の子どもの頃は日本中にありとあらゆるモノが無かったし、貧富の格差は現在とはくらべものにならないほど大きかったし、田舎の村社会の同調圧力だってかなりのものだっただろうし、戦後の会社員生活はサビ残上等のブラック労働がデフォルト。
家電は無いし、庶民向けの雑誌すらも細かい文字で書かれてて挿絵や写真は少ないし、お医者さんすらも隣町まで行かないとないとか普通だもんね。
父の前では「なんだかしんどいんです!生きづらいんです!!」なんて言えません。
私はといえば、昭和50年代生まれ、横浜育ち。
食料、衣料は歩いて15分の駅周辺のお店で買えば済むし、お医者さんも近所に数件はあるし、テレビをつければ友達と喧嘩をした憂鬱さも吹き飛ぶお笑い番組が見られました。洗濯板を使ったことは無いし、お風呂はいつでも暖かい。お腹が空けばキッチンの戸棚を開ければ何かはある。確かに、何にも困った事がない子ども時代だったな~と思い出します。
この大変豊かな日本の生活。どれだけの人達が支えてくれているのでしょうか?。
今、私の目の前に明日の朝食に食べる予定のパンがあります。
このパンが欲しいと思う人全員に届くような量、それだけの原材料の生産、安全な品質の保証、工場からスーパーまで運搬、店に陳列するひと、レジ打ちをするひと。パッと考えただけでこれだけのモノと人と行程を経ているわけですが、細かい作業を含めるとかなりの人員が携わっていることになります。
平均寿命が世界一と言われる医療水準を支えている人はどのくらいいるでしょうか?
快適で省エネ、環境にも優しい家電や産業機械を開発、生産、販売に関わっている人はどのくらい??そしてそれらの人達は一定の体力と知識とスキルが必要です。
生きづらさについてものすごく端的に言えば、この豊かさを手放せない事も理由なのではないかと思うのです。
経済や社会情勢という角度から生きづらさの正体を語るのは専門家にお任せするとして、名もなき一生活者の私が感じていることは 豊かさを維持する為の社会構造と人材育成が必須であることが現代人のプレッシャーといったら大げさでしょうか。
もう、日本人は飢えることも、感染症で命を落とすことも、楽しみのない生活にも、時間がかかる作業が完了するまで待つことも受け入れられません。
ある東大生が大学生活になじめず、母親に悩みをこぼしました。鬱状態の一歩手前。
母親は、「命が一番大切!そんなにしんどいなら大学辞めて帰っておいで!」と言ったそうです。
しかし、息子さんは「辞めてどうするの?そんな簡単に言わないで」と返したとのこと。
話を聴く限り、とても誠実で優しくて純粋な青年。
それでも、苦労して手に入れたモノに囚われてしまっていたようです。
(彼はその後、しんどい気持ちを表現し、様々なサポートを経て客観視することで危機を乗り越えたそうです。拍手!悩みを話せる間柄の親子関係。あっぱれ!)
高学歴夫婦に間の子どもは、その親が望んでなくても自身の内面に「勉強をしなくては」という圧力をかける頑固おやじのような存在を生みだしてしまうかもしれません。
しかし、学びや学歴は生きやすさを実現するための手段なはずです。目的ではありません。
おいしくて長持ちしていつでも手に入るパンをの品質と供給レベルを下げることはできません。でも、コロナ禍よりも大変な気候危機に面した時、パンがすぐに手に入れられると言えるでしょうか。
企業が従業員に支給する給料はよっぽどのことが無い限り下げることはできません。
今の給与ベースを維持するだけで精一杯の企業ばかりの現状からどうやって生きていくか考えなくてはなりません。
美しさと若さを誇っていた女優が老いて醜くなることは簡単に受け入れるのは難しいようです。でも美貌と若さが永遠ではないことはおとぎ話でも語られていることです。
どうやら人間は、一度手にいれた豊かさや快適さ、名誉や財産を手放すことはできないらしいことは私自身の生活や内面を振り返ると、その通りだなあと思うのです。
しかし、学歴、財産、経済活動、すべては生きやすさを実現する手段だったはずです。
手段の為に、精神を病んでしまったり自死を選ぶのは本末転倒。とても悲しいことだけど。
手持ち0円から1万円を得た経験のある人
既に100万円を持っていた人が失い続ける経験の後に1万円しか残らなかった人。
金額は同じなのに、そこにたどり着くまでの正反対なストーリーから、「生きやすさ」のヒントは得られないものでしょうか。
どちらが幸福でどちらが不幸かなんて判断するだけでは面白くない。
お金だけではなく、家族や友人や仕事、楽しみの見つけ方。すでに手にあるものでどうやって豊かさを感じる事ができるか。
それを探求すること、そのものが「生きづらい」でも、「生きやすい」でもなく、「生きる」ことなんだろうなぁ、と思います。